「君臨すれども統治せず」が導く昭和の動乱
いずれにしろ昭和天皇は、結論として、「この事件あって以来、私は内閣の上奏する所のものはたとえ自分が反対の意見を持っていても裁可を与える事に決心した」つまり張作霖爆殺事件、田中内閣総辞職があって以来、内閣が一致して言ってくることに対しては、自分は違う意見であっても常によろしいと認めることにした、というわけです。
この独白録は戦後に昔のことを思い出して語った記録ですが、証拠はないものの、天皇は「今後は余計なことは言ってはなりません、それは憲法違反になりますから」と、元老の西園寺さんにかなりきつく言われたのではないでしょうか。
先に述べた西園寺さんの豹変は陸軍の強硬派にかなり脅されたためと考えられますが、「立憲君主制においては、国務(政治)と統帥(軍)の各最上位者が完全な意見の一致をもって上奏してきた事は、仮に君主自身、内心においては不賛成なりとも、君主はこれに裁可を与うるを憲法の常道なりと確信する」、と西園寺さんは言います。
つまり日本のような立憲君主国では、政治及び外交、軍事問題はいずれもそれぞれの責任ある人たち、つまり内閣、軍部の大臣らが、完全な意見の一致をもって報告にきたことは、天皇陛下は仮に不賛成であったとしても許可するのが憲法の常道なのだと確信している、というのです。
天皇はこれを受けて、自分の意見を言ったばかりに内閣がひっくり返り、しかも総理大臣が間もなく亡くなるという事態となってある種の混乱をもたらした、そういうことを天皇自らの指図でやってはいけない、これからは閣議決定を重んじ、内閣の上奏に拒否しないことを今後の大方針にすると、忠告もあってそう決めたのです。
昭和史スタートのこの事件の意味は、事件そのものの大きさというより、ここにあるのです。
昭和天皇が以後、内閣や軍部が一致して決めたことにNOを言わない、余計な発言をしないという立場を守り抜く、つまり「君臨すれども統治せず」、これが立憲君主国の君主のあり方だと自ら考えた。
昭和史は常にここからはじまり、これがのちに日本があらぬ方向へ動き出す結果をもたらすのです。
西園寺公望とは何者か?
ところで、西園寺公望とはどのような人なのでしょうか。