
2025年は昭和100年にあたる。令和の今、昭和を生きた先人からから学ぶことは何か。約60年間にわたり昭和史研究を続けた半藤一利氏が、この後の日本の運命を大きく左右することになった「天皇・マッカーサー会談」を語る。前後編の後編。(JBpress編集部)
(半藤一利:作家)
※本稿は『新版 昭和史 戦後篇』(半藤一利著、平凡社)より一部抜粋・再編集したものです。
前編「天皇・マッカーサー会談、戦争責任への言及はあったのか」からつづく。
皇太子(編集部注:現上皇陛下)の家庭教師を務めたバイニング夫人──マッカーサーのお気に入りでした──が残した日記を、東京新聞が発掘して昭和62年(1987)10月3日付紙面で抜粋を掲載しています。うち会見について、マッカーサーから聞いた話として書かれた12月7日の項を引用しますと、
元帥「戦争責任をおとりになるか」
天皇「その質問に答える前に、私のほうから話をしたい」
元帥「どうぞ。お話しなさい」
天皇「あなたが私をどのようにしようともかまわない。私はそれを受け入れる。私を絞首刑にしてもかまわない」
これは原文では、You may hang me.となっています。天皇は続けて、
「しかし、私は戦争を望んだことはなかった。なぜならば、私は戦争に勝てるとは思わなかったからだ。私は軍部に不信感をもっていた。そして私は戦争にならないようにできる限りのことをした」
ほかにも、同志社大学で教鞭をとったオーティス・ケリーのおばさんが書いたものや、その他一つ二つ、天皇陛下がマッカーサーに「戦争責任は私にある」ということを言った記録が私の手元にあります。そして、回想録にもあるように、マッカーサーはこの時ひどく驚き、心の底から感動したようです。戦争に敗けたどこの国の元首が、自ら訪ねてきて「自分に責任があるから身の処置は任せる」などと言うだろうかと。
確かに、歴史を見れば、たいていが亡命または命乞い、責任はないと強気に出るくらいで、自分から“You may hang me.”と言った例などないでしょう。マッカーサーは「この人は」と思った、と回想録にもありますし、自ら何度も語っています。つまり、占領政策スタートの基本に、天皇に対するマッカーサーの大いなる尊敬が生まれてしまったのです。
そして1回目の会談が終わった時、来訪時は出迎えもしなかったにもかかわらず、彼は天皇を車に乗り込むまで見送ったというのです。
