また銀行の仕事は正確性が要求され、かつ支店で働いていると頻繁に顧客や同僚に用事で呼ばれ、さらに人事部や支店長に私生活まで細かくチェック(監視)されるので、たまったものではない。筆者は銀行に14年間勤務した後、日系の証券会社の英国法人に4年、総合商社の英国法人に5年4カ月勤務したが、銀行という職場がいかに閉塞的で、寒々とした相互監視の組織であったかを実感した。

性善説から「性弱説」への転換が必要

 かつて銀行は、就職人気も高く、そこそこいい人材を採用することができた。しかし、最近は、かつてほどには人気がなく、行員のモラルも昔ほどには高くない。しかも労働市場の流動性が高くなったので、一生銀行に勤めないと生きて行けない時代でもなく、行内ルールを金科玉条視する動機も相対的に弱い。

 筆者が住む英国では、銀行員の質は日本より低く、アルバイト程度としか思えない人間もざらにいる。またアジアやアフリカなど行員の出身地も雑多で、現金を持ち逃げして、遥か遠くの故国に行方をくらますなどということもあり得ない話ではない。

 そういう状況になってくると、かつての性善説で貸金庫の合鍵(または合鍵機能のカード)を管理職とはいえ一人の行員の手に委ねる(あるいは一人の行員が不正利用できるシステムのままにしておく)ことは危険になってくる。

 貸金庫の顧客の中には鍵を紛失し、「今日、貸金庫の中の書類が必要だけど、鍵が見当たらない。何とかしてくれ」と駆けこんで来る人も時々いる。貸金庫を利用するには、一定の預金残高を有するといった条件が付されているのが普通で、銀行にとって大事な顧客であるケースが多い。そういう顧客の依頼に即座に対応するためには、支店に合鍵があることも必要だろう。今後は、それをどう管理するかが問題となる。最近のコンピューター化され、顧客がカードや暗証番号でアクセスするタイプの貸金庫でも同様の問題が生じる。

 筆者が銀行員だった頃、内部の管理システムは、罰せられると分かっていれば、規則違反はしないはずという一種の性善説で、たとえば顧客のキャッシュカードの暗証番号も行員は簡単に見ることができた(預金の印鑑届けに番号が記入されていて、それが口座番号順にキャビネットに納められ、行員は誰の許可もなく見ることができた)。今ではそういうことはなく、英国では絶対にあり得ない。