(柳原 三佳・ノンフィクション作家)
11月11日、第215特別国会が召集され、国会議事堂には先の衆議院選挙で当選した議員たちが、午前8時の開門を待って次々と登院しました。今回は3年前の選挙より2名多い99名の新人が当選。その中に、4回目の挑戦で初当選した眞野哲氏(63/立憲民主党)の姿がありました。
10月28日未明、比例代表(東海ブロック)で当選を確実にした直後、眞野さんは電話でこう語りました。
「うどん屋の息子だった私には地盤も何もなく、国政への挑戦は無謀ともいえるものでした。でも、この12年間、あきらめないで本当によかったと思っています。国会議員になったからには、目標のひとつである被害者庁の発足に向け、できる限りのことをしていきます」
13年前、ハロウィンの夜に起こったあの痛ましい出来事……、理不尽な司法の判断に打ちのめされながらも、制度の改正を訴え続けてきた眞野さんの闘いを間近で見てきただけに、気迫に満ちたその声を聞いたときは感極まるものがありました。
眞野さんはなぜ、自身が国会議員になってまで被害者庁なるものを作りたいと考えたのか。そこにはどんな思いがあるのか。眞野さんとの出会いを振り返りながら、お話を伺いました。
飲酒・無免許・無灯火・一方通行逆走のブラジル人に
眞野さんからの初めてのメールがHP経由で私のもとに届いたのは、今から12年前、2012年1月のことでした。
〈初めまして、名古屋市に住む眞野哲(マノサトシ)と申します。昨年10月30日、自転車で横断歩行を走行中の長男・貴仁(19歳)が、飲酒、無免許、無車検、無保険、一方通行を無灯火で逆走してきたブラジル人の車にひき逃げされ、亡くなりました。時速約100キロで衝突された息子は自転車もろともはね飛ばされ、大量の血を流して倒れていたにもかかわらず、加害者は救護どころか車から降りもせず、クモの巣状に割れたフロントガラスの隙間から前をのぞきながらアクセルを踏み込みました。そして、民家の塀に車をぶつけ、タイヤをバーストさせた状態でさらに逃走。約1時間半後に逮捕されました。病院で対面したとき、息子の頭がい骨は大きく陥没し、いたるところから血が流れ出て、まさに地獄絵図のようでした。おそらく自分が死んだことも理解できないまま逝ったのではないかと思います……〉