道長をぎゃふんと言わせた和泉式部(「恋に奔放」ランキング1位)
和泉式部は、平安時代の中期に活躍したことはわかっているが、生没年も本名も明らかではない。
「和泉式部」の名は、夫の官職から取られたものだ。夫は和泉国守を務めた橘道貞である。結婚後、和泉式部は小式部内侍という娘を産む。そのときに人からこう聞かれたという。
「父親は誰に決めましたか」
そう、和泉式部は恋多き女だった。小式部が生まれた翌年には、冷泉天皇の第三皇子にあたる為尊親王との恋愛がスタート。夫の道貞とは離婚し、さらに父からも勘当されて見放されてしまう。為尊親王が病死するという不幸に見舞われると、今度は為尊親王の弟・敦道親王とも恋仲になるという奔放ぶりだ。
敦道親王が死去すると、宮仕えした和泉式部だったが、その後もモテ人生は続いたらしい。平安中期の貴族・藤原保昌から一目ぼれされたときには、こう伝えたという。
「紫宸殿の梅を折ってきてくれたら、結婚しましょう」
紫宸殿とは帝のいるところで、そこの庭から梅の木を折って盗んでこいというのだ。諦めろといわれているに等しいが、恋は盲目だ。藤原保昌は盗みを実行。警備に弓を射られながらもミッションを成功させ、彼女と結婚できたという。
和泉式部といえば、『小倉百人一首』に収録されている次の和歌が有名だ。
「あらざらむ この世のほかの 思ひ出に いまひとたびの あふこともがな」
現代語訳は「わたしはもうすぐ死んでしまうでしょう。わたしのあの世への思い出になるように、せめてもう一度だけあなたにお会いしたいものです」。こんな和歌も詠んだ。
「こえもせむ こさずもあらむ 逢坂の 関もりならぬ 人なとがめそ」
背景としては、ある人が和泉式部からもらった扇を持っていると、藤原道長がそれを見て、「浮かれ女の扇」と書きつけた。道長は和泉式部の恋愛体質をからかったわけだが、それを知って和泉式部が詠んだのがこの作品だ。現代語訳にすると、次のようになる。
「男と女の逢瀬の関を越える者もいれば、越えない者だっている。恋の道は人それぞれなのに、あんたにとがめられる覚えはありません」
痛快な和歌で、道長をぎゃふんと言わせた和泉式部。これはモテるはずだ。