連載:少子化ニッポンに必要な本物の「性」の知識
肉体的生命よりも内面的生命の自由と幸福を重んじた明治期のクリスチャンで詩人の北村透谷(きたむらとうこく:1868-94)は明治25年『処女の純潔を論ず』と題し、
「天地愛好すべき者多し、而して尤も愛好すべきは処女の純潔なるかな。もし黄金、瑠璃、真珠を尊としとせば、処女の純潔は人界に於ける黄金、瑠璃、真珠なり」から始まる一文を発表したのが日本における純潔思想の起源とする説がある。
それに続き、日本の婦人運動の先駆者となった平塚らいてう(ひらつか らいちょう:1886-1971)は『処女の真価値』という文章を発表した。
そこで、らいてうは「処女を捨てるタイミングは、恋人に対する愛情の中から官能的な欲求が生じてきて、愛と欲求が自分の人格の中でほんとうに一致結合した場合だ」と主張している。
それから時は移り、明治、大正、昭和、平成を経て令和の世となった。
当時の西欧近代主義を背景とした北村透谷や平塚らいてうの性的純潔思想は、いまも、なおいくらかの説得力を保ちながらも、その間、社会事情は激変し、昭和の終わりには既に風前の灯火となっていた感もある。
西欧文明が日本を席巻する明治以前、銭湯は男女混浴。
ほとんど全国の農村で、お盆の祭りの後は一堂に男女が同衾(雑魚寝)して乱交を行う風習があった。
夜這いも、太古の昔から日本全国で一般的に行われた文化風習で、それは男が求婚をし、女のもとに通うこと。
だが、器量の良い女性には何人もの男が求婚する。それは取るか取られるかの、まさに真剣勝負。
ちなみに最初に夜這いを果たした男には一本槍の称号が与えられた。