パワハラに見えてパワハラではなかった立川談志

「いいか、俺がお前に発した今の怒りはな、お前の人格否定ではなく、お前の行動に対する怒りなんだ」

 パワハラという言葉もない平成初期、いまから30年以上も前のことです。私は山ほどの小言を談志から食らい続けていました。そのたびに談志は、今でいうパワハラ的に怒りを爆発させた後、必ずこの言葉を接頭語のように付け加えるのでした。

 私は、師匠から自分が着ている服をからかわれたこともなければ、「23歳に見えない」などと外見を揶揄されたこともありません。

毒舌だった立川談志=2010年撮影(写真:共同通信社)

 談志の逆鱗に触れるのは、あくまでも私の「言動」のみでした。

 入門してまず初めに食らった小言が、「挨拶」についてです。「挨拶をメロディで言うな、バカ野郎」などと罵倒されたものです。師匠のそばで迎えた新弟子初日のこと。緊張のあまり、談志に向けて発した「おはようございます」の声が小さかったのでしょう。それを見逃してくれませんでした。

 何かにつけ、談志は新弟子たちに「俺は教育者じゃないから、小言でものを言うだけだ」と言っていました。そして、「お前の人格否定ではない」というフレーズも繰り返していました。

 談志が弟子たちと向き合うときの姿勢がよく現れているのが、決して「呼び捨て」にしなかったことです。ひどくしくじった時を別にして、弟子たちや他のスタッフたちを「あいつら」などと呼ぶこともありませんでした。

 しかも談志は、自分の家族には弟子たちを敬称で呼ぶように徹底させていました。「俺の弟子であって、うちの家族の弟子ではない」という配慮です。私なんかはほんと使えない弟子でしたが、談志の家族の皆さんからは「ワコールさん」と呼ばれていたものです。

 職場の上司・部下、学校の先輩・後輩の関係では、目上の者が目下の者を呼び捨てにすることがよくあります。今回、炎上したフジテレビの映像でも、先輩アナが上垣アナを「呼び捨て」にしていました。

 その職場、コミュニティでは当たり前のことなのかもしれませんが、「呼び捨て」に慣れていない私は違和感を覚えました。あくまでCM中の発言なので当初は公開される予定はなかったのかもしれません。それでも、「楽屋裏」でのやり取りを公衆の面前にさらしてしまったようなもので、その違和感が炎上を招いてしまったのではないでしょうか。

「いじり」は受け手や見る者によって、「いじめ」か「愛のあるいじりか」は評価が分かれるリスクを常に伴います。特に、年齢や容姿、ファッションなど、アイデンティティに密接にかかわることについて揶揄することは、その人の尊厳を傷つける可能性があります。上垣アナ自身、先輩アナたち自身がどう感じていたかは別にしても、見る者を不快にさせかねないやり取りを公開してしまったことは、とても残念だったような気がします。

 ただ、繰り返しになりますが、「いじり」と「いじめ」の違いはとても悩ましいものではあります。

 何年か前、故郷である長野県上田市の小学校を訪れたときのことを思い出しました。人権週間で、「いじめのない落語の世界」というタイトルで子どもたちにわかりやすく話してほしい、という依頼でした。

 私が選んだのは、「寿限無(じゅげむ)」です。