(歴史ライター:西股 総生)
戦国時代に勢力をもった国衆の子孫
JR南武線の谷保(やほ)駅から西に800メートルほど、国立市の谷保という場所に、「三田氏館」「谷保の城山(じょうやま)」「谷保城」などと呼ばれる城跡がある。一帯は東京都の歴史環境保全地域に指定されていて、緑地の中の散策が楽しめるところだ。
城内には現在も三田氏の御子孫が住んでおられるが、この三田氏は戦国時代に青梅地方に勢力をもった国衆の子孫で、江戸時代になって当地に居住したと伝わっている。ただし、城跡は中世〜戦国時代のなので、三田氏が築城主というわけではない。おそらく、帰農した三田氏が土塁や堀の残る城跡に居を構えたのだろう。
近世に編まれた地誌類は、平安時代の武将などを居住者として挙げているが、こじつけのような話だ。実際には、いつ誰が築いたか不明の城で、それゆえ「城山」などと呼ばれてきたのだろう。「三田氏館」の呼称は歴史的には適当でないから、本稿では、とりあえず「谷保城」と呼んでおく。
城は、武蔵野台地の縁辺にあって多摩川北岸の低地にのぞんでいる。つまり段丘崖を利用した城で、7メートルほどの標高差がある。東側には、幅20〜30メートルの谷が入り込んで天然の空堀となっており、まずまずの要害地形といえよう。
城は、空堀や土塁で区画された三つの曲輪からなっている。城内は現在も三田氏の私有地なので無断立入はできないが、敷地の外側からでも堀と土塁を見ることはできる。
さて、この谷保城から西北西に約3.5キロ、立川市柴崎町4丁目の普済寺という古刹の境内に土塁が残っていて、こちらは「立川氏館」と伝えられている。中央線の線路は、新宿を出ると立川までほぼ一直線に走ってくるが、立川の駅を出ると右手に青梅・五日市線を見送って大きくカーブし、多摩川の鉄橋を渡る。このとき左手の車窓に見えるのが普済寺(立川氏館)で、台地の縁(段丘害)に臨んでいる様子が見て取れる。
立川(立河)氏は、古くからこのあたりに根を張っていた小領主で、戦国時代には北条氏に仕え、のちに水戸徳川家の家臣となった。普済寺には立川氏に関わる文化財も伝わっており、境内の発掘調査でも中世の遺構・遺物が多く見つかっている。となると、普済寺は立川氏の館跡と見てよさそうに思える。ところが、ことはそう単純ではないのだ。
まず、境内の中心部で見つかった遺構は、出土遺物から見て15世紀後半から16世紀前半のものと判断されている。また、地中探査レーダーの調査結果から、城域は普済寺の境内を大きく超えて広がっていたこともわかっている。その規模は200メートル四方にも及ぶと推測され、立川氏のような小領主の館としては大きすぎる。
ここで、視野を広げて考えてみよう。谷保城や伝立川氏館のように、堀と土塁で四角く囲むのが領主館のスタイルなのだとしたら、多摩川にのぞむ武蔵野台地の縁には同じような館が並んでいるはずである。でも実際には、多摩地域でこうしたスタイルを持つのは、伝立川氏館や谷保城くらいしかないのだ。
一方、多摩川の対岸に目を向けると、ちょうど伝立川氏館と向かい合う位置に高幡城、谷保城と向かい合う位置に百草城がある(ともに日野市)。そして、この4城の間に広がる多摩川の河川敷は、享徳4年(1455)に鎌倉公方軍と関東管領軍が戦った立河原合戦や、永正元年(1504)に山内上杉軍と扇谷上杉軍とが衝突した第二次立河原合戦の起きた場所なのである。
谷保城や伝立川氏館は、これらの合戦に際して築かれた陣所と考えた方が自然だろう。伝立川氏館の場合は、立川氏の住んでいた場所が普済寺となり、そこに陣がおかれたわけだ(寺に陣を取るのは戦国あるあるだ)。陣を築くのに適した場所が台地の縁だったので、必然的に堀と土塁で四角く囲む形になり、後生の人たちが「館」と思いこんだようである。
*5月15日掲載「こんなところに山城が!?首都圏近郊にある「高幡城」が、山城ビギナーにおすすめの理由」をご参照下さい。