写真/西股 総生(以下同)

(歴史ライター:西股 総生)

普段着とスニーカーで気軽に散策できる

 突然で恐縮だが、山城とは具体的にどのくらいの高さのある城を指すのか、ご存じだろうか? 

 山城を考えるときにポイントとなるのは標高ではなく、麓から山頂までの標高差である。明確な定義があるわけではないが、ザックリいって標高差が100メートル以上あれば、専門家のほとんどが山城と認めるだろう。また、標高差が50メートルに満たなければ、丘城に分類されるだろう。

 問題は、標高差50〜100メートルくらいの城だ。たとえば同じ70メートルでも、ギュンと立ち上がっていれば山城っぽいし、なだらかに70メートルなら丘城にカテゴライズした方がよい、というわけである。

写真1:こちらは八王子城。見るからに大変そうで実際に遭難事故も起きている。山城初心者には剣呑だ

 もちろん、山城は標高差が大きければ大きいほど登るのは大変になる。だから、山城なるものにちょいと登ってみたいなあ、などと思い立ったときに、そこらに手頃な山城があれば、入門用としてうってつけである。そんなおあつらえ向きの山城が、そうあるものか、というと……ちゃんとあるのだ。しかも、交通至便な駅近に。

 高幡不動といえば、首都圏在住者なら知らない人はないくらい有名な古刹である。新宿から京王線の特急に乗れば、40分足らずで高幡不動駅につくし、駅を降りて飲食店などが並ぶ参道を歩けば、すぐに山門だ。

写真2:高幡不動の境内に立つ土方歳三の像。日野は土方の出身地だが、彼の背後の山が城跡だ

 この高幡不動尊金剛寺(正式には高幡山明王院金剛寺)の裏山が、城跡なのである。山頂の主郭までの標高差は56メートルだが、やせ尾根に築かれていて山容が山城っぽいので、ギリギリ山城にカテゴライズできる。

 城へは山内巡拝用の遊歩道が完備されているので、普段着とスニーカーで気軽に散策できる。しかも特急停車駅から5分で登り口なのだから、山城入門にうってつけではないか。地方在住の方でも所用で上京した折に、ちょいと立ち寄ることができるだろう。

写真3:高幡城への遊歩道。緑の中をゆるゆる登れば、なかなかの山城気分を味わえる

 五重塔の手前から巡拝路に入ると、軽自動車が上がれそうな広い道と、散策用の山道とに分かれるが、どちらを登っても同じだから心配はない。ゆるゆる登ってゆくと、ほどなく写真4の場所に行き当たる。切り通しのようになっているこの場所が、堀切の跡だ。

写真4:高幡城の表示の出ているところが堀切跡だ。地形を注意深く観察してみよう

 石段を登ったところの細長い平坦地が二ノ曲輪で、奥の道が狭まったところが、また堀切跡。その先が主郭で、主郭の背後に下る尾根にも数段の腰曲輪を切っている。

写真5:山頂の主郭。木が茂っていなければ多摩川対岸から奥多摩の山々まで一望できたはず
写真6:主郭の背後には数段の腰曲輪が造作されている。段・段になっているのがわかるかな?

 南西側に続く尾根の所にも堀切があったのだろうが、道で埋められたらしくよくわからない。写真4の所まで戻って、尾根の上を通る巡拝路を注意深く下ってみよう。尾根の上が、何段かの曲輪に造作されているのがわかるはずだ。

 高幡城は史料には全く出てこないので、正確な来歴は不詳だ。ただ、享徳4年(1445)に鎌倉公方軍と関東管領軍が戦った立河原合戦(第二次分倍河原合戦ともいう)の際、管領方の先鋒大将だった上杉憲顕が、高幡不動に逃げ込んで自刃している。

 また、永正元年(1504)には、山内上杉軍と扇谷上杉軍とがこのあたりで激突している(第二次立河原合戦)。この合戦の際には、扇谷方の援軍として、駿河の今川氏から派遣された伊勢宗瑞が参戦している。

写真7:高幡城主郭から分倍河原方面を望む。分倍河原〜立河原一帯では南北朝期以降、何度も合戦が起きている。遠くに新宿の高層ビル群が見える

 高幡城の上からは、分倍河原〜立河原方面が一望できる。高幡不動が陣所として使われたり、背後の山に見張り場のような簡単な山城が設けられた可能性は、きわめて高い。というより、使われなかったと考える方が不自然だろう。

 そんな高幡城。山城ビギナーは入門コースとして、関東戦国史通なら二度の立河原合戦に思いを馳せながら、気軽に散策してみてはいかがだろうか。

[参考図書] イラスト・マンガ満載で山城の基本がするりと飲みこめる、拙著『戦国の城がいちばんよくわかる本』(KKベストセラーズ)。ご興味のある方はぜひご一読下さい。