この騒動を経て正二塁手になった岡田は18本塁打、54打点、打率.290で新人王を獲得する。
打者としての岡田彰布は「バランスの良い中距離打者」だと言える。本塁打20本、打点60、打率.280前後をコンスタントに記録する。また二塁守備は堅実で、守備判断も的確だった。
この岡田と、実質的なテスト生として入団してから頭角を現した2歳年上の掛布雅之、そしてMLBでは鳴かず飛ばずだった3歳年上のランディ・バースという個性が全く異なる3人の「選手としてのピーク」が奇跡的にシンクロした1985年、阪神は1964年以来、21年ぶりのリーグ優勝を果たし、余勢を駆って西武を倒し日本一に輝くのだ。
この年4月17日の甲子園の巨人戦で、掛布、バース、岡田が、槙原寛己がわずか6球を投じる間に放った「バックスクリーン3連発」は球史に残る名シーンだった。
85年にリーグ優勝&日本一、喜び方を知らなかった阪神ファン
筆者は当時、御堂筋に面したビルにある会社に勤めていたが、優勝が決まった夜、御堂筋には大声で快哉を叫びまわる暴徒のような集団が現れた。
この時期まで、関西で優勝するのは「阪急ブレーブス」か「近鉄バファローズ」だった。ただ、これらのチームが優勝しても沿線の人々がささやかに喜ぶだけだった。
御堂筋の南のどんつき(行き止まり)にある大阪球場を本拠とする南海ホークスは、1977年オフにプレイングマネージャーの野村克也がサッチー(野村沙知代夫人)絡みの問題で球団を追われて以降、鳴かず飛ばずで、新聞に「南海やっても勝てまへん」と書かれる始末だった。
そして唯一のセ・リーグ球団の阪神は、もう21年も優勝していなかった。当時も関西の野球ファンは虎党が多数派だったが、彼らは弱い阪神を応援していることを自虐的に語った。
要するに、阪神ファンは「強い阪神」を知らなかったから「どう喜んでいいかわからず」暴動めいた騒ぎを起こし、道頓堀に飛び込んだり、カーネル・サンダースの人形を放り込んだりしたわけだ。
しかし、この1985年を境にして関西の阪神ファンは胸を張って「わしらは阪神ファンや」と言うようになっていった。