「スーパーマリオブラザーズ・ムービー」ロサンゼルス特別上映会に登場した任天堂代表取締役フェローの宮本茂氏
写真提供:Collin Xavier/Image Press Agency ABACA/共同通信イメージズ

「スーパーマリオ」「ゼルダの伝説」など数々のヒット作を生み、「ゲーム界のウォルト・ディズニー」と呼ばれる任天堂の宮本茂氏。しかし入社当時は、エンジニアがほとんどの職場で、美術系大学出身の“異分子”だったという。この記事では『ひらめきはカオスから生まれる』(オリ・ブラフマン、ジューダ・ポラック著/金子一雄訳/入山章栄解説/ディスカヴァー・トゥエンティワン)から内容の一部を抜粋・再編集。イノベーションを起こす「制御されたカオス」や「計画されたセレンディピティ」について実例を通して解説する。

 異分子だった宮本氏は、業界にどのような革新をもたらし、“現代テレビゲームの父”となっていったのか。

テレビゲームとゴリラ

ひらめきはカオスから生まれる』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)

 宮本は日本の京都で生まれ育ち、幼いころから漫画家や操り人形師にあこがれていた夢想家であり芸術家でもある。

 金沢美術工芸大学に進学するものの、学業のできはアインシュタインと大差なかった――「並」である。授業には半分しか出席せず、フォークソングに熱を上げ、みずからのギターに合わせるバンジョー奏者を必死に探しまわっていた。おかげで卒業までに五年を要した。

 アインシュタインと同じく、就職については父親が援助の手をさしのべてくれた。友人であり、当時の任天堂の社長だった山内溥(ひろし)への口利きのおかげで、宮本は面接の機会を得たのである。

 1970年代の当時、アーケード・ゲーム(業務用ゲーム機)は、きわめて単純な仕組みだった。ちょうどピンポンを再現するように、二人のプレーヤーが画面上でラケット(縦線)を上下に移動させ、相手のボール(点)を跳ねかえすといった内容である。やがて80年代に入ると、簡素な画像のキャラクターが導入される。

 そんなアーケード・ゲームは、じきに世界中で大ヒットする。子供たちは小銭を握りしめ、長い行列をつくり、『スペースインベーダー』や『パックマン』に夢中になった。積もり積もった小銭は莫大な収益となり、メーカー各社は次なるドル箱を求めてしのぎを削った。