早大野球部で金字塔、ドラフトでは6球団が競合

 当時の東京六大学には2学年上に法政大の江川卓(のち巨人)、1学年上に明治大の高橋三千丈(のち中日)などのスター選手がいた。大学野球界全体を見渡せば1学年下に東海大の原辰徳(のち巨人)、中央大の高木豊(のち大洋)、亜細亜大の大石大二郎(のち近鉄)などがいたが、岡田は早稲田大で88試合309打数117安打、打率.379、20本塁打、81打点という空前の記録を残す。通算打率、打点は今も東京六大学記録だ。

早大時代、合宿所で取材を受ける岡田彰布氏(写真:共同通信社)
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 1978年春には史上2人目のサイクルヒット、同年秋には史上4人目の三冠王、20本塁打は歴代3位。今に至るも長嶋茂雄(立教大)、高橋由伸(慶應義塾大)とならび「東京六大学最強打者」の一人だと言ってよい。

 1979年のドラフトでは岡田彰布は「最大の目玉」となり、西武、ヤクルト、南海、阪急、近鉄、阪神と6球団が競合した。おそらく岡田の気持ちは「阪神」一択だったはずだ。6分の1という確率ながら、阪神は見事に岡田を引き当てる。このあたり、日の当たる道を歩くことが約束された岡田らしいと思う。

 当時の阪神タイガースの監督は、ドン・ブレイザーだった。その頭脳を買われて南海の野村克也監督の参謀格となったブレイザーは、広島のヘッドコーチを経て1979年から阪神の監督になっていた。

 MLBでは「トッププロスペクト(超有望株)は、ファームでじっくり育てる」のが普通だ。岡田は大学時代は三塁だったが、阪神の三塁には掛布雅之がいる。ブレイザーは岡田を二塁手にしたが、当初は控えで、正二塁手には新外国人のデーブ・ヒルトンを起用するつもりだった。

 しかし、当時の阪神ファンは「大阪生まれで、東京で活躍した岡田が阪神に帰ってきたのや。出さんかい」と球団にプレッシャーを与えた。この圧力に辟易してブレイザーは1980年の開幕から1カ月余りの5月に退団。中西太が監督になった。