「石破のせがれ預かって」田中角栄がダミ声で電話してきた

 そもそも石破氏がミッチーの主宰する政策集団「温知会」候補として初出馬するに至るきっかけは、昭和59年4月、鳥取全県区の温知会メンバーだった島田安夫代議士が亡くなったことに始まる。島田氏のご遺体を東京女子医大病院から霊柩車を手配し、お見送りした春の寒い夜をよく覚えている。

 程なくして「鳥取温知会」の経済人である吉岡利固氏(鳥取エフワン・西日本海新聞社主)から話があり、田中角栄元総理の「木曜クラブ」事務局にいる石破茂氏を擁立しようとなった。

 角さんからミッチー宛に電話があり、例のダミ声で「みっちゃん、石破のせがれ預かってくれんかね。頼むよ。」という感じだった。中選挙区ですでに田中派には平林鴻三代議士がいたからである。

こぶしを振り上げて演説する田中角栄元首相=1976年11月23日、新潟県刈羽郡西山町(写真:共同通信社)こぶしを振り上げて演説する田中角栄元首相=1976年11月23日、新潟県刈羽郡西山町(写真:共同通信社)

 私が秘書として鳥取担当となった。最初の仕事は島田氏の長男充(もとむ)氏を出馬しないよう説得することだった。ご遺族として面識もあり、私にとっては切なく荷の重いことだった(結局、私の説得は失敗。充氏は大手の広告代理店を退職し、無所属で出馬した)。

 次の仕事は、島田氏のベテラン秘書であった渕見佐恵子さんと同行して島田後援会の幹部宅回り。石破後援会に切り替える作業だった。鳥取は東部(鳥取市など)・中部(倉吉市など)・西部(米子市など)の3地区があり、石破氏は東部、島田氏は中部、相沢英之氏は奥様である司葉子さんの出身地・西部を地盤としていた。特に島田派の最高幹部かつ大物県議で東伯農協(中部)や鳥取県果実連を率いる花本義雄氏にはお世話になった。