撮影/西股 総生(以下同)

(歴史ライター:西股 総生)

「権力は必ず腐敗する」

 前稿までのように日本史を俯瞰してきたとき、権力が外から大きな力で打撃されないかぎり倒壊しない理由が、理解できるだろう。権力を握るとは、取りも直さず徴税システムを手中に収めることであり、徴税システムを手放さないかぎり権力は権力たりうるのだ。

 また、こう考えてきたときに、「権力は必ず腐敗する」という言葉の意味も腑に落ちる。現場の徴税吏がいくら汗をかくかにかかわらず、元締めである権力者の側から見れば、徴税システムとは一種の不労収入だからだ。平安の貴族たちは、律令制を蚕食して自分たちに都合のよい利権システムへと作り替えていったが、同じことは徴税システムが存在するかぎり原理的にいつでも起こりうる。

いつの時代も権力の源泉を為すのは徴税システムである

 われわれが納めている税金だって、元をたどれば江戸時代の年貢であり、年貢とは大名や武士たちを養うための資金源だった。その税金を、政治家や役人を肥やすための資金源とせずに、国民全体のために使わせるのが民主主義だ。主権在民とは、国民から徴収した税金は国民全体のために使え、という意味なのである。

大坂城の御金蔵。あまり注目されないが非常に貴重な遺構である

 だからこそ国会=国民の代表者たちが集まる場において、国家予算が審議されるのだ。逆にいえば、われわれが油断していると、税金はたちまち先祖返りして年貢の性質をあらわにする。政治家と役人、そのお友達を肥やすための利権になってしまうのだ。実例は、枚挙に暇のないほど思い浮かぶだろう。

 さて、以上の考察をもとにして、昨今話題のマイナンバー制度について考えてみよう。政府は、行政のデジタル化を進めることが国民の利便性向上にもつながるのだ、と説明している、しかし、これまで日本国政府が進めてきたデジタル政策が、本当に国民のためになったことはあまりない(コロナ禍でのCOCOAが典型)。

民主主義国家では国民の納めた税金は国民全体のために使われる(ことになっている)

 にもかからわず政府は、マイナカードと健康保険証の一体化を、医療界の猛反対を押し切ってまで強行しようとしている。国民の健康や医療を受ける権利を人質にとってまで、なぜ政府は国民にマイナカードを使わせたいのか?

 筆者は、マイナンバー制度の本質は徴税システムのデジタル化であり、それは畢竟、徴税強化策につながるものだと考えている。そう思っていたら、河野太郎デジタル担当相(執筆時点)が、サラリーマンの年末調整を廃止して国民全員が確定申告をする政策をぶち上げてきた。なるほど、国民全員がマイナカードを使えば確定申告もしやすいだろう。

千鳥ヶ淵から見た国会議事堂

 来年には、運転免許証とマイナカードの一体化も始まる。また、チケットの転売防止策として、Jリーグと提携してサッカーのチケット販売にマイナカードを利用する方法も、試行するそうだ。

 これらが実現し普及してゆけば、国民の誰が年に何回サッカーや野球を見に行ったか、観劇やライブに足を運んだか、徴税側は把握できる。年間に一定回数(10回とか)以上、サッカーや野球を見に行った人からは「スポーツ振興協力税」を、観劇やライブに行った人からは「芸術助成協力税」を徴収するすることも可能になるだろう。犯罪に悪用されないためにガソリンを車に入れる際にはマイナ運転免許証の提示が必要、とすれば噂の走行距離税だって簡単に実現しそうである。

全国民がマイナカードを持つと、いろいろ便利なことが可能になる?

 消費税率を何パーセントか上げようとすれば、国民もメディアも大騒ぎして、下手をしたら内閣が倒れかねない。けれども、こうした少額の新税を導入するだけなら、多くの国民は「自分は車に乗らないからいいや」「サッカー観ないから関係ない」といって、大きな抵抗はしないだろう。今年から、いつの間にか「森林税」が上乗せされているように。

 歴史から税金と権力の関係を見直したとき、マイナンバー制度の便利さを本当に享受できるのは、利用する国民の側か、制度を作った政府の側(徴税側)なのかが、浮かび上がってくるように思う。