(歴史ライター:西股 総生)
一律・一元的に徴税するシステムを持っていなかった江戸幕府
幕藩体制は中央集権制ではないから、徳川幕府(江戸幕府)はどんなに威張っても、全国から一律・一元的に徴税するシステムを持っていなかった。幕府の財源は、徳川家の領地(天領)から取り立てた税(年貢)である。この基本原理は、頼朝が荘園領主や知行国主となることで幕府の財源が成立していた鎌倉時代と、本質的に変わらない。
こうした幕藩体制を打倒して、1150年ぶりに中央集権体制を復活させたのが明治新政府である。この権力移行は、教科書風(年表風)にまとめるなら、大政奉還→王政復古の大号令→東京遷都→明治政府の樹立、という経緯をたどる。けれども、実際には鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争があって、権力移行はすんなりとは行かなかった。
大政奉還・王政復古大号令の後、京・大坂間では新政府軍と幕府軍とが対峙していたが、錦の御旗を持ち出して戦端を開いたのは新政府軍の側だった。敗走した幕府軍は大坂城に籠もったが、内乱を嫌った徳川慶喜は密かに城を脱して、海路で江戸へ帰った。そして、江戸城には入らずに寛永寺に蟄居して、ひたすら恭順の姿勢をとった。
だとしたら、慶喜と徳川家の処遇は、本来なら政治的に決着されるのが筋だったはずだ。にもかかわらず、新政府側は謀略によって治安を攪乱し、これを口実として討伐軍を江戸へと差し向けた。
結局、江戸城そのものは西郷と勝海舟の談判によって無血開城となった。しかし、江戸の街は新政府軍によって占領され、これに納得しない勢力(彰義隊・伝習隊や新撰組、奥羽越諸藩)との間で、戊辰戦争が続くこととなった。新政府がこのような武断的方針にこだわった最大の理由は、財源である。
いくら王政復古の大号令を発して錦旗を高く掲げても、新政府には財政基盤がない。天皇家の財源はわずか1万石だし、岩倉具視や三条実美は貧乏貴族。実質的中心人物の西郷隆盛・大久保利通らは藩から出向している有志にすぎないし、軍事力だって薩長土肥ら有志連合の藩兵、つまりは島津家や毛利家の持ち物でしかない。
早い話、新政府は自前の徴税システムを持っていなかったわけだ。そこで、徳川家やそれを支持する者たちを「朝敵」として討伐し、彼らの領地=徴税システムを奪うことによって、当座の財源を確保しなければならなかった。西郷が江戸無血開城を決断したのも、日本最大の経済都市である江戸を無傷で手に入れる必要があったため、とわかる。
こうして、とりあえずは新政府を成り立たせると、まず藩を県と読み替え(廃藩置県)、旧藩主に領地の支配権を返上させた(版籍奉還)。そして、中央から派遣した知事が県を治め、細分化されていた県(旧藩の領地)を統合して、近代的な行政区分へと再編成していった。ここでいう大名の領地支配権とは、取りも直さず徴税権のことである。
さらに、年貢を地租と読み替えることで(地租改正)、全国一律・一元的な徴税システムへと段階的に移行していった。律令国家以来1150年ぶりに復活した中央集権政府において、徴税と国家財政・金融政策を統括する役所が、律令制と同じく「大蔵省」と名付けられたのも、必然であったことがわかる。
こののち日本の徴税システムは、時代に応じて少しずつアップデートされ、あるいは消費税のような新税が上乗せされ、平成13年(2001)の省庁再編で大蔵省の業務は一部が分割され、主要部は財務省と読み替えられて、現在に至っている。
おわかりだろうか。連載の第1回で述べたように、日本に統一国家が成立して以来、既存の徴税システムを御破算にして、ゼロから新しい徴税システムを作り上げた支配権力など、一つもないのである。
なぜなら、徴税システムとは膨大で煩雑なものだし、それを実働させるためには官僚機構が必要だからだ。ゆえに新興の勢力は、基本的には前時代の徴税システムや官僚機構を継承しなければ、政権を成立させられない。そうしておいて、漸進的に読み替えやアップデートを行い、あるいは新税を少しずつ上乗せして、自分たちの都合のよいように作り替えてゆくのである。(つづく)