分倍河原駅前に立つ新田義貞像

(歴史ライター:西股 総生)

400年かけてボロボロになった「荘園公領制」

 鎌倉幕府は「荘園公領制」にパラサイトしながら、実力を蓄えて朝廷との力関係を逆転させていった。その鎌倉幕府は、足利尊氏や新田義貞によって武力で打倒され、京都には新しく室町幕府が成立した。ただし、鎌倉幕府の吏僚たちの多くは室町幕府と引き継がれた。政権の実務をこなしてゆくためには、官僚組織が不可欠だったからだ。

「荘園公領制」という徴税システムの原理も、そのまま継続した。ただし、各地の武士たちは南北朝の内乱に伴う臨時の戦費調達行為によって、貴族・寺社の利権を蚕食してゆき、内乱の泥沼化によって、戦費調達行為は次第に武士たちの既得権益となっていった。

 戦国時代に入ると、武士たちによる「荘園公領制」の蚕食は爆発的に加速する。荘園であれ公領であれ、現地においては実力のある者だけが徴税権を行使できる社会状況になったからである。

韮山城。伊勢新九郎(早雲)は実力で伊豆を切り取り、ここに本拠を構えた

 荘園領主だった都の貴族の中には、こうした状況に対応するため、もっとも実入りの期待できる荘園の現地に自ら下向して、直接支配を試みる者も現れた。直接支配というより、現地で徴収した富を自らが現地で消費する態勢といった方がよいかもしれない。土佐に下った一条氏などは、現地で自分の領地を守るため、武装して戦国大名化していった。

 また、各国の守護たちのうち、戦費調達のため国内の人民に一律徴収する新税を上乗せして、戦時体制をうまく確立できた者は戦国大名への脱皮を遂げた。今川氏・武田氏・大友氏などである。国衆や土豪から戦国大名に成り上がった者や、他国から入り込んで勢力を築いた者たちも同様だ。既存の徴税システムを横取りし、あるいは頼朝のように配下の者に利権を切り分け、その上に領内一律の上納分を積み上げて権力を確立していった。

甲府駅前の武田信虎像。信玄の父である信虎は戦時体制を利用して権力を集中していった

 こうして頼朝以来、400年をかけて蚕食されボロボロになった「荘園公領制」は、最終的には豊臣秀吉による太閤検地と刀狩りによって、息の根を止められた。検地という行為は、それ以前にも必要に応じて行われていたが、太閤検地は全国一律に行われたところがミソである。

 といっても、全国のすべての耕地に役人が竿や縄をもって計測に入るのは、現実には不可能だ。中世の検地と同じように、村側が提出した帳簿を役人が精査し、疑問な箇所があればその都度、現地でチェックや計測を行うというのが、実際だったろう。

秀吉は太閤検地を進めることで、地域ごとの年貢高と貢納関係を確定していった

 大切なのは、短期間のうちに一斉に検地を実施したことにより、全国で村ごとの年貢高=納税額が確定されたことだ。こうして村ごとの納税額がベースとなって、大名たちの石高が算出されたが、大名とは豊臣政権によって各地の支配権を与えられた徴税の元締だ。

 この検地とセットで進められた政策が、刀狩りである。刀狩りといっても、庶民がすべての武器を徹底的に没収されたわけではない。自衛のための刀剣、狩猟や害獣駆除用の弓・鉄炮まで取り上げるのは無理である。刀狩りという政策が施行された以上、庶民が大っぴらに武器を使うことは許されなくなった、というのが現実的にはポイントなのだ。

松坂城。秀吉の武将として頭角を現した蒲生氏郷は伊勢に封じられてこの城を築いた

 要するに、戦士階級=武士と、非戦士階級=庶民との区別が明確に「見える化」されたわけである。これを太閤検地と重ね合わせると、政策の本質が浮かび上がる。武士=戦士階級=支配階級と、庶民=非戦士階級=被支配階級とが、はっきり分離されることになった。支配階級とは要するに税(年貢)を徴収する側、被支配階級とは税を納める側である。

 こうして8世紀に律令国家として成立した中央集権体制は、900年もの長い時間をかけてゆっくりと解体し、地方分権的な体制へと移行していった。それぞれの地域を支配する権力=大名が、自分の領地から税(年貢)を徴収し、消費する体制である。(つづく)

金沢城。豊臣政権と徳川幕府によって作られた近世日本は分権制国家だっため、各地に独自の経済圏と文化が発達することとなった