この病院の地下が充実しているのは、ロシア軍による攻撃が続いた去年春の2カ月、実際に300人がここで生活し、医療活動もすべて地下で行われ(電気がない中での手術もあった)、55人の赤ちゃんが地下で生まれるという経験があったからだ。病院長のヴァレリーさんは2カ月シェルターを出ることなく寝泊まりし、ずっと母子の命を支えた。

 ここで、ウクライナにおけるシェルターの意味を考えさせられる話を聞いた。ソ連時代に軍事産業の集積地だったウクライナには、冷戦時代、西側からの核攻撃に備えて地下シェルターが数多く造られた。この時代から、学校や病院、役所には地下シェルターが備えられていた。そして、シェルターの「第2の波」が来たのは1986年。チェルノブイリ原発事故が起きた後のことだ。被曝を防ぐ目的でシェルターが拡充された。そして2022年2月のロシア侵攻。地下シェルターは、ウクライナの人々にとって常に「使う蓋然性の高いもの」として身近にあった。この感覚は日本にいては知ることのないものだった。

 国連機関や各国の人道支援団体の援助によって、各所の地下シェルターには水タンクが備えられ、暖房設備も整って、快適度を上げて充実していく。そして警報が鳴るたびに人々はシェルターへと降りていく。こうした地下生活が日常に組み込まれていることは、冒頭に書いた「シーソーの生活」の象徴のひとつだと思った。

産婦人科の地下シェルター産婦人科の地下シェルター

ウクライナとガザを同時に支援するNGOスタッフのタフな働きぶり

 ウクライナ国内を移動する間、共に行動したピースウィンズ海外事業部長の山本理夏と中東・東欧マネージャー内海旬子の仕事ぶりを垣間見ることができた。普段は在宅勤務のため、会議の時くらいしか顔を見る機会がない(それも画面越し)が、一緒に行動して改めて彼女たちのタフさに感銘を受けた。

 出張したのは10月の終わりから11月の初め。イスラエルのガザ地区への攻撃が1カ月になろうとする頃だった。ふたりは毎朝、ホテルや移動中の車の中で東エルサレムの事務所とオンライン会議を開いていた。通信遮断により、ガザにいるパレスチナ人スタッフと連絡が取れなくなった。みんな無事なのか? どうやってエジプトから支援物資を運び入れるのか。誰とどう連携すればいいのか……、ウクライナの大平原を爆走する車の中で、こうした難題への対処について、ふたりは現場からの報告を聞いて次々と指示を出していく。

 ある朝など、移動中の車の中で内海がガザ会議の後、モルドバ会議に出席し、立て続けにシリア会議に出るのを見た。今年はトルコ大地震があり、モロッコやアフガニスタンの大地震があり、ハワイ・マウイ島の山火事があって、ガザ爆撃があった。ロシア侵攻から2年が近づいても出口の見えないウクライナ情勢だけでなく、世界各地の人々の苦難にふたりは立ち向かっている。

 以前、山本に話を聞いた時、「できる支援があるなら、やらない理由はない」という言葉を聞いたことがある。軽やかな言い回しに、人道支援のプロフェッショナリズムを見た。

 内海はNGOの仕事について「大きな事業は国連や国がやればいい。私たちNGOはニッチなんです。それがおもしろいと思う人にとっては、おもしろい」と言った。素人の私からすると数億円規模の事業が「ニッチ」なのかはよくわからないが、現場に軸足を置く彼女らしい言い方だと思った。

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