「今、ウクライナで男性であること」の苦悩

 事業地を見て回るのが目的だったため、ウクライナの人々と長く語り合う時間はなかったが、ピースウィンズのウクライナ人スタッフと断片的に交わした会話から、今のウクライナの状況を推しはかることができた。

 ある女性スタッフは進学のためキーウに来てそのまま暮らしているが、出身は南部のロシア占領地域で、両親は今もそこで暮らしている。無事は確認しているが、会いに行くことも、来てもらうこともできない。別の女性スタッフは夫とトルコに旅した時の思い出を楽しそうに語ってくれた。だが、男性の出国が許されない現状では、夫婦で海外旅行をする可能性はない。

 もうひとりの女性スタッフは、ロシアによる侵攻直前、自然に恵まれたブチャ地区にアパートを買おうと思っていたが、決めきれないうちにロシアが入ってきて一帯を蹂躙した。当時、ロシア軍がベラルーシの国境周辺に集結していたため、首都キーウが危ないと思った人々は、「田舎なら大丈夫だろう」と郊外のブチャ地区に避難したが、逆にそこでロシア軍が住民を大量に虐殺。ロシア軍が撤退した後に400人以上の遺体が残されることになった。

 出国禁止の対象となり、いつ徴兵されてもおかしくない男性スタッフに、聞いても良いのかどうか迷いながら「今、ウクライナで男性であること」は何を意味するのか聞いてみた。普段とても明るくて雄弁な彼がしばらく考えてから、流暢な英語でこう言った。

「海外に出られないことは居心地が悪いけれど、まあそれは我慢できる。だけど辛いのは将来を決められないこと。家のリフォームをしたいけれど、手をつけて明日徴兵されたら妻はどうすればいいんだろうと考えるとためらってしまう。問題は男性だけのものではない。僕が出張の間にブラックアウトが起きて、3人の子供と家に残っていた妻が泣きながら電話してきたことがある。遠出するときは残された家族の心配をしなければならないし、家族は僕の身を案じなければならない。先が見えなくて、家族の身が心配なのは、女性も男性も変わらない。ただ、本当にいつ徴兵されるかわからない年齢の男性として、今の自分の生活を説明しろと言われると、『継続性がない』と答えるでしょう。明日の予定くらいは辛うじて決められる。でも、3日先に何が起きているかなんてわからない。先のことを何も決められないのです」

閉鎖された国境

 さまざまなものを見て、話を聞いて、ウクライナを離れる日にも「戦争の影」は姿を現した。朝、キーウを車で出発して、モルドバを目指していたところ、12時45分にウクライナ全土にアラートが発出された。ロシアでミグ戦闘機が飛び立ち、その目的地が不明のために全土が警報対象となった。何度かウクライナを訪問している山本が言った。「国境が閉鎖されるかもしれない」。

 果たして14時50分に国境に辿り着くと、ゲートは閉鎖され、人も車も通行は許されず、私たちの車の前に20台以上の列ができていた。警報が解除されなければゲートは開かない。出国するだけなのだから、とっとと通して欲しいと思うが、徴兵を逃れようとする男性が隠れていないかといった確認もあり、車は1台1台丁寧に検査しなければならない。

 警報の解除を待つうちに、疑問が湧いてきた。警報が出ている間、原則としてシェルターに避難しなければならないが、車列の人々は動く気配はない。理屈の上では、この車列が攻撃される可能性はあるものの、おそらく本気でその心配をする人はいない。このあたりにも、「日常と非日常が入り混じる」中で現実的な選択をしながら生活するしかないウクライナの暮らしの実相がある。もしも、このまま警報が解除されず外出禁止の時間になったら、出国を待つ人々はどうするのだろうか、とも考えた。

 そうこうするうち、15時10分に警報が解除され、車列はジリジリと前進を始めた。結局、ゲートに辿り着いてから3時間近く経った17時35分、私たちの車は国境の検問を越えてモルドバに入国した。面倒な検査を通過した解放感と、警報が響くことのないモルドバに入った安堵で、少し気持ちが緩んだような気がした。入国から出国まで1週間、特段危険なことは何もなかったとはいえ、私の胸にも「非日常」は刻まれていたのだろう。

草生亜紀子
(くさおいあきこ) 翻訳・文筆業。NGO職員。産経新聞、The Japan Times記者を経て、新潮社入社。『フォーサイト』『考える人』編集部などを経て、現職。

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