風頭公園の坂本龍馬像 写真/アフロ

(町田 明広:歴史学者)

国民的ヒーロー・坂本龍馬

 坂本龍馬(天保6年11月15日〈1836年1月3日〉~ 慶応3年11月15日〈1867年12月10日〉)と言えば、時代の古今を問わず、国民的ヒーローであることは論をまたないであろう。

 龍馬の生涯は、わずか32年足らずに過ぎないが、その人生は波瀾万丈に富んでいた。まさに、疾風怒涛の人生を駆け足で走り抜いたのだ。多くの日本人が、その人生に何らかの仮託をするなど、龍馬に思いを馳せている。

 国民的ヒーローとなった龍馬は、歴史家がなかなか手を付けにくい、アンタッチャブルな存在となっていた。しかし、少しずつ研究の蓄積ができ始め、龍馬伝説にメスが入ったり、新たな龍馬の事績が発掘されていることも、周知のことであろう。筆者も以前、JBpressでは「坂本龍馬は薩摩藩士か?」を執筆したが、龍馬には意外にも謎の部分が少なくない。

 龍馬は生涯で2回の脱藩をしているが、今回は2回にわたって、1回目の脱藩に焦点を当て、龍馬が脱藩に至った経緯や目的を追ってみたい。そして、尊王志士・坂本龍馬が誕生した背景について、長州藩士の久坂玄瑞との関係にも言及しながら、その謎にも言及してみたい。

龍馬の萩行きの経緯

 文久元年(1861)10月11日、龍馬は「剣術詮議」(剣術修行、武者修行)の名目で讃岐(香川県)丸亀に向かう許可を得て高知を出発した。しかし、龍馬の本当の目的は「剣術詮議」ではなかった。実は、翌2年1月14日、龍馬は長州の萩に現れたのだ。

 龍馬が萩に向かった目的は、土佐勤王党の首領で龍馬の同士である、武市半平太の書簡を久坂玄瑞に届けることにあった。武市はそれ以前に、江戸で久坂と交友を深めており、尊王攘夷の実行に向けて協同することを誓い合った仲であった。

 ところで、龍馬が長州藩に簡単に入れた理由を説明しておこう。そこには、長州藩士の長嶺内蔵太、山県半蔵(宍戸璣)の存在があったのだ。龍馬が高知を出発した同日に、長嶺らは久坂の意を受けて土佐藩に潜入するため、土佐と伊予の国境にある立川関で武市にその旨を伝えた。

山県半蔵(宍戸璣)

 長嶺らが事前に武市らと相談していたのかは分からないが、武市の内意を受けた龍馬は津田三治、三宮新右衛門とともに長嶺らに会いに行った。そして、龍馬はそのまま、「剣術詮議」という名目で土佐を出た。こうした経緯を経て、龍馬は長嶺らに先導され長州入りを果たしたのだ。