本陣伊藤邸跡。下関の名家だった伊藤家は吉田松陰や坂本龍馬を支援していた 写真/フォトライブラリー

(町田 明広:歴史学者)

◉坂本龍馬はなぜ土佐藩を離れたのか①

坂本龍馬と久坂玄瑞

 文久2年(1862)1月、坂本龍馬は武市半平太の書簡を携え、長州藩の萩に久坂玄瑞を訪ねた。久坂は、「草莽崛起論」を開陳して、諸侯も公家も頼むに足らず、草莽の志士が糾合さえすれば天下を動かせると力説した。加えて、島津久光の率兵上京の目的が義挙であると説明し、薩摩・長州・土佐3藩が同盟関係を構築して、朝廷守護に尽力することを提案した。

 龍馬は、久坂の提案に大いに賛同した。久坂の言説に触れたことにより、武市が進める「藩」に依拠した尊王攘夷運動に疑問を感じた。龍馬は久坂に感化され、尊王志士としての骨格が形成されたと言っても過言ではなかろう。

 久坂は龍馬が志士に成長するにあたって、大きな触媒的な効果をもたらしたのだ。志士龍馬の誕生である。

龍馬脱藩の目的とは

 長州藩を後にした龍馬は、京都に向かった。その途中で、住吉(摂津国武庫郡。現神戸市)の土佐藩陣営を訪ね、さらに入京して、久光の率兵上京前の情勢を探ったのだ。しかし、率兵上京はまだ1ヶ月以上先の出来事であった。

 3月1日、帰藩して武市に対し、この間の視察の内容を説明した。久坂の言説に触れ、上方探索をする過程で、すでに帰藩前には脱藩の決意を強くしていたと推察する。そして、いよいよ運命の日が訪れる。3月24日、龍馬は沢村惣之丞とともに脱藩したのだ。

沢村惣之丞

 さて、龍馬はなぜ脱藩したのだろうか。その理由は、土佐藩参政の吉田東洋暗殺(4月8日)による土佐勤王党への嫌疑がかかるであろう情勢を嫌ったため、また、武市を助けるための組織的な活動の一環として、他藩の情報収集を行うため、といったことが挙げられてきた。

吉田東洋

 しかし、筆者は龍馬脱藩の最大の要因は、薩摩藩の義挙へ加わることを目指したためではないかと踏んでいる。久坂玄瑞から様々な志士的要素を吸収した龍馬は、その思いの丈を、島津久光の率兵上京に賭けようとしたのだ。