(町田 明広:歴史学者)
薩英戦争の原因・生麦事件
今から160年前、文久3年(1863)7月2日、鹿児島湾で薩英戦争が勃発した。そもそも、なぜ薩摩藩とイギリスは戦争に至ったのだろうか。その導火線となったのは、前年の文久2年(1862)8月21日に起こった生麦事件であった。
生麦事件とは、江戸から京都に向かう薩摩藩主の実父であり、かつ最高権力者である島津久光の行列に騎馬で遭遇した英国商人リチャードソンを奈良原喜左衛門らが無礼打ちした事件である。リチャードソンは肩から腹へ斬り下げられ、臓腑が出るほどの深手を負い、200メートルほど戻り落馬した。そこに、追いかけてきた海江田信義によって止めを刺された。
ちなみに、リチャードソンと同行していた男性2人も負傷し、また、女性で唯一同行していたボロデール夫人も一撃を受けていたが、帽子と髪の一部が飛ばされただけの無傷であった。薩摩藩士はリチャードソンを首謀者と判断し、女性には手加減を加えたのだ。
発生直後からイギリスと幕府、そして薩摩藩との間で大きな紛争の火種となったのが、この生麦事件である。今回は、生麦事件から薩英戦争に至る経緯から戦後の和平交渉まで、その実相を追いながら、3回にわたって、薩英戦争の真実を解き明したい。
イギリスの要求と事件の重要性
イギリスのラッセル外相は、幕府に対しては事件の発生を許したことに対する公式の謝罪、犯罪に対する罰として10万ポンド(40万ドル)の支払いを、薩摩藩に対しては、1名ないし数名のイギリス海軍士官の立会いの下にリチャードソンを殺害し、その他の者に危害を加えた犯人を裁判に付し処刑すること、被害に会った4名のイギリス人関係者に分配するため、2万5千ポンド(10万ドル)を支払うことを要求した。
しかし、この要求にはいささか首をかしげざるを得ない。と言うのは、日本を代表し、通商条約を締結した幕府のみならず、薩摩藩に対してまで要求をしているのだ。これは何を意味しているのだろうか。
実は、ラッセル外相が「日本の異常な政治状況」を考慮せざるを得ないとして、幕府と薩摩藩の双方に賠償金等を要求している。「日本の異常な政治状況」とは、幕府の権威が地方諸侯、つまり薩摩藩に及ばない実態を指している。この事実は、幕府の全国統治能力を否定しており、さらなる幕府の権威の低下を招来したことに他ならない。
なお、英国通訳官のアーネスト・サトウは、『英国策論』(慶応2年、1866)の中で、外国が将軍と条約を結んだことが大きな間違いであったことに気づいたのは、生麦事件からであり、将軍は諸侯を統制できないことが明白となった。しかも、諸侯が割拠を始めた契機であると指摘していることは極めて重要である。そして、外国は今の通商条約を破棄して、新条約を結ぶべきであると結論付けている。生麦事件は、まさに外国勢力が幕府を見る目を一変させた重大事件であったのだ。