(柳原三佳・ノンフィクション作家)
この2年間、新型コロナウイルスの感染拡大によってさまざまなイベントが制限されてきましたが、米海軍横須賀基地では今年10月、3年ぶりに「ヨコスカフレンドシップデー」が開催されました。基地内が一般に開放され、夜には「よこすか開国花火大会」も行われ、市内は終日、多くの人で賑わいました。
普段は入ることのできない基地内で、米海軍の巨大艦船を見学したり、アメリカンフードの屋台で楽しんだり……、しばし、アメリカ旅行の気分を味わった方もいらっしゃったのではないでしょうか。
実は私も11月、横須賀基地内に入り、150年以上前に起工された日本最古の「第1号ドライドック」を見学してきました。(*ドライドック=船の検査や整備、修理等を行うために、ポンプで水を抜くことのできる巨大な施設)。
そこで今回は、幕末から始まった米海軍横須賀基地の歴史と、第1号ドライドックの現在の姿、そして、本連載の主人公「開成をつくった男・佐野鼎(さのかなえ)」(1829~1877)と横須賀基地の意外な接点について振り返ってみたいと思います。
若き日の豊田佐吉も視察にきた横須賀製鉄所
現在の米海軍横須賀基地には、もともと江戸幕府によって建設された「横須賀製鉄所」がありました。
1860年、万延元年遣米使節としてアメリカのすぐれた造船技術を目の当たりにしていた幕臣・小栗忠順(おぐりただまさ)は、帰国後、「日本の近代化のためには大型船に対応した造船所が必要だ」と幕府に強く訴えました。幕府内部からは反対の声もありましたが、小栗はそれを押し切り、フランス人技師、フランソワ・レオンス・ヴェルニーの力を借りて、1865(慶応元)年、「横須賀製鉄所」の建設に着手したのです。
それから数年の歳月を費やし、この地には大型船の修理が可能なドライドックのほか、最先端の工場が次々とつくられ、1871(明治4)年には「横須賀造船所」と改称。その後、日本の海軍施設として使われていましたが、1945(昭和20)年、第二次世界大戦に敗戦したことでアメリカに接収され、現在に至っています。
幕末に横須賀製鉄所が作られた経緯と、この工場がいかに日本を助け、近代化に役立ったかについては、以前、本連載でも取り上げたとおりです。
(参考)東郷平八郎が「日露戦争の勝利は幕臣・小栗上野介のお陰」と感謝した理由 (https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/70174)