(真山 知幸:偉人研究家)
この令和の時代に、鎌倉幕府3代将軍の源実朝がこれほど話題になるとは、誰が予想しただろうか。NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で俳優の柿澤勇人さんが好演。実権を握る北条義時に対して、実朝は時に立ち向かう姿勢を見せるも、押さえつけられてしまう。その孤独な姿が視聴者の胸を打つようだ。
実朝は和田合戦後、義時にたしなめられるほど朝廷に近づいていく。だが、そこには後鳥羽上皇の企みがあったとも言われている。和田合戦後に繰り広げられた義時と実朝の攻防戦や、後鳥羽上皇が仕掛けたとされる「官打ち」について解説する。
実朝への御家人の直訴ができなくなった理由
鎌倉幕府を揺るがす最大の内乱「和田合戦」は、実権を握る北条義時の率いる鎌倉軍が、和田一族を鎮圧して、事なきを得た。鎌倉時代の文献『吾妻鏡』には、次のようにある。
「此の輩、悉(ことごと)く敗北の間、世上、無為に属す」
「此の輩」とは和田一族のことだ。彼らが敗北したことで「世上、無為に属す」、つまり、世の中は穏やかになったとしている。もはや、北条家に立ち向かう有力御家人はいなくなった。北条家にとっては確かにこれで安泰である。
勢い盛んな北条義時は、政所別当だけではなく、侍所別当にも就任。内政面の改革を行っていく。そのうちの一つが、官職への推挙の方法を変更したことである。
官職の申請については、必ず家督を通して、奉公人になされることになった。つまり、家督のもとに一本化することで、将軍に直接、官職を願い出ることをできなくしたのである。
思えば、和田合戦が起きた背景の一つに、和田義盛が上総介への推挙を実朝に直訴したことがある。義盛と親交が深かった実朝は前向きだったが、北条政子らが阻止。義盛が北条家に反感を持つ要因にもなった。
将軍の権力を弱体化させるためにも、義時は御家人と実朝との直接的なつながりを絶とうとしたのである。