神職一族から妻を娶り続けた産屋敷一族

 その産屋敷一族は、「代々神職の一族から妻をもらい…子供も死にづらくなったが…/それでも我が一族の誰も……三十年と生きられない…」という。

 神職の一族から妻をもらう習慣は、神主の助言から始めたのだろう。最初に妻となったのは、その娘だったかもしれない。

 それまで産屋敷一族は無惨のことがあり、貴族社会から離脱していたと考えられるが、これで表舞台に出られなくなった産屋敷一族は、俗世の人脈がほぼ根こそぎ絶たれることになったに違いない。これから無惨を滅殺する戦いと向き合うにあたり、大きな痛恨事である。神主はこれを心配して、広範囲にネットワークを有する神職との血縁関係を結ぶことを提案したのではないか。

 これは双方にとって都合のいい縁談だった。産屋敷一族には、神の予言がごとき「先見の明」があり、かつまた「鎹鴉」を作り出したり、隊士たちに「藤花彫り」で手のひらに「階級」を示させる力を与えたりする異能があった。その助けを得られれば神職の一族は、大いに繁栄するに違いない。

 つまり、産屋敷と神職の一族は、「神も仏も存在しない」世界で、信仰の加護を得るためではなく、より合理的理由から結びつきを深めることにしたのである。

 こうして産屋敷一族は悪鬼滅殺の活動を継続させながら順調に子孫を残し続け、神職の一族もまた産屋敷一族の異能により、繁栄の礎を築いていったことであろう。なお「神職の一族から妻をもらい」というのは、日本全ての神職たちから妻をもらっていたのではなく、特定の一族から妻をもらっていたと考えられる。時には血縁の近しい結婚もあったに違いない。それゆえ、産屋敷耀哉は始祖に極めて近しい風貌を得ていたと思われる。

 23歳で亡くなる産屋敷耀哉の顔つきは、まさに無惨と「双子のように瓜二つ」(単行本16巻86ページ)であったという。

 

【乃至政彦】歴史家。1974年生まれ。高松市出身、相模原市在住。著書に『謙信越山』(JBpress)『平将門と天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)、『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』(河出書房新社)など。書籍監修や講演でも活動中。昨年10月より新シリーズ『謙信と信長』や、戦国時代の文献や軍記をどのように読み解いているかを紹介するコンテンツ企画『歴史ノ部屋』を始めた。

【歴史の部屋】
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