再び出家した理由は?
謙信が再び宗心の法号に戻った理由もよくわかっていないが、同年中、謙信は猿千代のほかに別の後継者候補と巡り合うこととなる。「六月朔辰刻」(『謙信公御書集』)、または「弘治元年乙卯年十一月二十七日辰刻上田城ニ於テ」(『景勝公御年譜』)、姉婿の長尾政景夫妻に「卯松」なる男子が誕生したのだ。後の上杉景勝である。
ここは確証を得られないが、その後の宗心が、自分がいなくても「譜代家中の者たち」が団結してうまくやるだろうと楽観的に述べて出奔していることと、これを引き止めた中心人物が長尾政景その人だったことから、なんらかの心理的影響を与えている可能性はある。
ともあれ謙信は還俗してからまだ毛髪の生え揃わないうちに、早々と「宗心」の法号に復し、出奔を試みたあと、長尾政景に諫言されて、現役復帰し直した。そこからは東国各地を縦横無尽に駆け巡り、合戦を繰り返している。
実は僧兵姿ではなかった
最後に、いま一度『甲陽軍鑑』の記録を見てもらおう。今度は川中島合戦ではなく、その半年前の小田原攻めである。
「兜を着けずに白い布の手拭いを使って〈桂包み〉というもので頭を包み、朱色の采配を執って、(関東諸士のいる)前線を駆け巡り、人を生きた虫ケラほども思わない様子で命令していた(【原文】「甲を脱、白布の手拭をもつて桂包と云ふ物に頭を包み、朱さいはいをとりて諸手へ乗まわし下知し、人をいきたる虫程共思はざる景虎」)」
ここでも謙信は、白い手拭いを被って戦場を疾駆している様子を臨場性高く記録されている。それだけ印象深い光景だったのだろう。
ただ、ここで気になるところがある。謙信の格好を「桂包」としているところだ。桂包とは、室町時代の物売りの女性がやっていた頭巾の被り方である。「謙信は出家だからそういう行人包み(僧侶の頭巾の付け方)の格好をしていた」という書き方ではなく、京都の庶民女性たち(「桂女」たち、当然、毛髪は豊かであろう)がするようにしていたと書き伝えようとしているのである。
謙信の姿をその目で見た武田・北条の侍たちは「兜も着けずに雑兵や女みたいな布巻きで合戦に出てくるとは」と驚嘆するともに呆れる思いでその姿を眺めたのだろう。
僧兵の頭巾を着用する武士は、当時の言葉では「裹武者(つつみむしゃ)」と呼ばれていた(北条家の古文書にそう記されている)。だからもし謙信が僧兵大将を気取って動いていたなら、『甲陽軍鑑』もそう記したに違いない。あえて、これを「桂包」としているのは、やはり意味があろう。そもそもまったくの僧兵姿では、ほかの「法師武者」と見分けがつかない(山本勘介や真田一徳斎など、老体で出家してからも合戦に従軍する武将はたくさんいた)。武田信玄などは、それを利用して周囲に法師武者をたくさん並べて、謙信襲来に備えることがあった。
すると謙信は、白い頭巾で戦場を駆け巡っていたが、その姿は「戦へる僧」というものではなく、創意工夫を施していたと見るべきだろう。そしてそれは独自に洗練されていき、晩年期までには謙信研究者である布施秀治が図説したような形に落ち着いたのではないだろうか。
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