還俗と出家と還俗を繰り返す
ところで謙信が「宗心」の法号を授かったのは、引退を願ってのことだった。
実際に越後へ帰国した宗心は、翌年の天文23年(1554)春にいきなり「御隠居」を主張して「諸公事」を停止する事態を引き落こしている。
それほど思い詰めていたのだろう。
しかし何らかの理由により、弘治元年(1555)に宗心は還俗し、再び「長尾景虎」の名乗りに復している。
なぜ還俗したのか詳らかでないが、この背景には、兄・晴景の子である「猿千代」の「早世」があったのかもしれない。
謙信は『謙信公御年譜』『平姓長尾系図』などに、兄から「御旗ヲ預リ」という形で家督を譲り受けたと伝わっている。越後国主となった当初から謙信の跡継ぎは決まっていたのだ。申年(1548)生まれであろう猿千代は、謙信が宗心を名乗った翌年(1554)、7歳となっていたと考えられる。7歳といえば、景虎が元服した年齢である(『謙信公御年譜』等)。
早期の引退を望む謙信は、後継体制が安定に近づいていたことから、宗心の法号を求めたのだろう。差し当たって考えられるのは、猿千代の病気または死去である(猿千代は「早世」したというが、没年は不明である)。
大名が出家して隠居するには、後継体制が万全に整っていなければならない。それが頓挫すれば、現役復帰するのみである。
戦場の宗心
善根の乱や第二次川中島合戦では、薄い短髪頭で安定しない兜を使わず、白頭巾のままでいたかもしれない。
それでその後、また宗心の法号に戻り、さらに景虎へ戻ったあと、「ただでさえ名乗りを改めているのに、見た目まで変えるのはよくないのではないか」と考えたのではないだろうか。味方たちにとって総大将は、どこにいるのか瞬時にわかる装束でいるのが合理的である。だから有名な武将たちは個性的な鎧兜を愛用して、それをトレードマークにしていた。こうして謙信は、髷を結えるまで髪が伸びてからも、頭巾スタイルを継続したと考えれば、永禄4年(1561)3月の小田原攻めや同年9月の第四次川中島合戦でも白い頭巾姿であったことが首肯できるであろう。