『甲陽軍鑑』における上杉政虎

 もっともらしい演出の変化である。だがこの通説への疑義には疑問を覚える。一応、政虎の白頭巾姿には、文献史料に出典があるからだ。『甲陽軍鑑』である。

 同書は少し前まで偽書説が根強かった。ページをめくってみると、たしかに部分的に問題のある記述を散見する。ただ、もともとこれは武田信玄ならびに勝頼の重臣として著名だった香坂虎綱(高坂昌信)が用意していたテキストである。それが虎綱没後に原稿を受け継いだ小幡景憲らが手を入れて、編集してしまった。そのため、見るべき記述とおかしな記述とが混在することになってしまったのである。このことさえ留意すれば、歴史研究に活用できなくはない──という見方が、近年の主流と化している。

 さて、問題の川中島における上杉政虎の本陣討ち入りシーンを見てみよう。これを同書は次のように描写している。

「萌黄色の陣羽織を着た武者が、白い手拭いを頭に被り、クリーム色の馬に乗って、刃渡り90センチほどの刀を抜き放ち、軍用の椅子に腰掛けておられる武田信玄さまのもとへまっしぐらに駆けてくるなり、その刀先で三回、切り付けてきた」(【原文】「萌黄の胴肩衣きたる武者、白手拭にてつふりをつゝみ、月毛の馬に乗り三尺斗の刀を抜持て信玄公床机の上御座候へ一文字に乗よせ、きつさきはづしに三刀伐奉る」)

 ここで政虎は、たしかに白頭巾の姿で描かれている。

 石坂浩二や石原裕次郎や松岡昌宏ら名優たちが演じた名場面は、この記述をベースにしてきたのだ(ただし松岡は黒頭巾)。

 このように政虎の白頭巾には出典があるのだから、理由のないことではない。これを是とするか非とするか難しいところだが、想像力を働かせれば、肯定することもできなくはない。ヒントは「宗心」の名乗りにある。

「宗心」時代の戦争

 先述したように若い頃の謙信は「宗心」として、僧侶見習いの身になったことがある。米澤藩上杉家の『[羽前米澤]上杉家譜』によると、宗心時代の記事に「弘治二年六月、景虎薙髪シ、国ヲ逃レ」とあり、髪を剃っていたとする解釈が見える。宗心時代の謙信はこの通り、剃髪していたのだろう。

 この時、その軽装ぶりがすっかり気に入ってしまったのではないか。

 宗心時代の謙信は、越後善根の乱に赴いて、軍勢の指揮を執っている。おそらく出家した姿のままであっただろう。同年中には第二次川中島合戦にも赴いている。対陣中、武田の総大将を罠に嵌めて、討ち果たすことを企んでいた形跡もある。

 そこで狙っていたのは、一般に「車懸り」と俗称される「自身太刀打ち」戦法であろう。この戦法は、敵軍を壊乱させた後、反撃の危険がほとんど無くなった敵地へ謙信自ら馬を乗り入れ、斬り込みを仕掛けるというものである。なかば追撃戦のような一方的戦況に、防具など無用の長物であろう。「その際に我が身が重武装である必要などない」と悟ったのではないか。普通の大将なら安全安心のため兜を着用するところである。

 だが、弾丸の飛び交う最前線にも軽装で乗り込む謙信にすれば、重くて視界を狭める鉄製の兜より、布製の頭巾のほうが使い勝手がいい。「これは便利だ。死中に活を求めるようで、みんなも格好いいと思ってくれるだろう」と考えたかもしれない。

布施秀治『上杉謙信伝』(1917年)より。秀治は謙信の頭巾を伝承と取材に基づいて、図のように復元した。