(歴史学者・倉本 一宏)
軍事氏貴族として知られる大野氏
続けて軍事官僚について述べるとしよう。『続日本後紀』巻十三の承和十年(八四三)二月壬戌条(三日)は、次のような大野真鷹(おおののまたか)の卒伝を載せている。
散位(さんい)従四位下勲七等大野朝臣真鷹が卒去した。真鷹は左近衛中将従四位上勲五等真雄(まお)の子である。弘仁元年に春宮坊主馬首に任じられ、やがて左兵衛右衛門少尉を歴任して、十二年に従五位下に叙され、散位頭・大監物・左兵衛佐に至った。淳和(じゅんな)天皇が踐祚した天長の初年、右近衛権少将に任じられた。旧臣であったからである。ついで正五位下を授けられ、中将に転任した。九年に従四位下を授けられた。天皇が退位して、遊閑の日を送るようになっても、真鷹は朝廷に出仕した。この天長十年の十一月、大嘗会に供奉し、警固の陣が解散すると、自ら帯びていた武具を権中将藤原朝臣助(たすく)に贈り、山城国綴喜郡の私邸に隠居して、以後はまた出仕することを止めた。真鷹は生来、学問は無かったが、鷹や犬を好み、公務に精励して、朝から夜まで怠ることはなかった。また、日ごろ、俸給を割いて、写経を行ない、仏像を造顕したが、人に知らせることはなかった。老齢となって、とみに供養・薫修に励み、死後の遺族が追善仏事で煩うことのないようにした。父子ともに武門として行跡を同じくし、見る者を、「自分はこの父子に及ばず、残念だ」と歎息させた。その後、紀伊権守に拝任されたが、未だ赴任しないうちに卒去した。時に年六十二歳。
大野氏というのは、上野国山田郡大野郷を本拠とし、上毛野(かみつけの)氏と同祖を称した氏族である。壬申の乱に際して近江朝廷の将に大野果安(はたやす)がおり、その子の東人(あずまひと)は神亀元年(七二四)以降の蝦夷征伐や天平十二年(七四〇)の藤原広嗣(ひろつぐ)の乱の討伐に功があり、参議に上った。
その後も鎮守判官大野横刀(たち)、恵美押勝(えみのおしかつ)の乱で活躍した大野真本(まもと)、陸奥国伊治城の築城に功のあった大野石本(いわもと)など、軍事面での活躍が目立っている。真本の子の真雄も左近衛中将に任じられるなど、軍事貴族としての伝統は続いていた。
真鷹は、真雄の子。延暦元年(七八二)に生まれた。弘仁元年(八一〇)に十九歳で春宮坊の主馬首に任じられ、皇太子大伴(おおとも)親王(後の淳和天皇)に仕えた。その後、左兵衛少尉・右衛門少尉といった武官を経て、弘仁十二年(八二一)に三十歳で従五位下に叙爵された。
それから時期は不明ながら、散位頭・大監物・左兵衛佐を歴任し、淳和天皇の代になって、天長元年(八二四)に三十三歳で右近衛権少将、天長七年(八三〇)に三十九歳で右近衛中将に任じられ、父の官にほぼ並んだ。父子で武門として行跡を同じくし、皆はこの父子に及ばず残念だと、見る者を嘆息させたという。
ところが、天長十年(八三三)二月に次の仁明(にんみょう)天皇の代になると、十一月の大嘗会の警固の陣に供奉し、その陣が解かれると、真鷹は帯びていた武具を右近衛権中将の藤原助に贈り、山城国綴喜郡の邸宅に退去して隠棲し、出仕を取りやめた。これで真鷹は武官から外され、散位という無官の状態が続いた。
これは真鷹にとっても不本意なことだったであろうが、官人たる者、天皇の行なう人事に不満を抱いてはならない。ただ、大嘗会の際の態度が仁明の心証を悪くしたであろうことは、十分に考えられるところである。真鷹としては、東宮時代から淳和に仕えてきて、「忠臣は二君に仕えず」といったところであろうが、新帝としては、あまり気分のいいものではなかろう。このあたり、無骨な武官の風貌が窺える。
承和年間、真鷹は紀伊権守という地方官に任じられたが、赴任することなく、承和十年に卒去した。六十二歳。
真鷹の人となりは、学問は無かったものの鷹や犬を好み、公務に精励して怠ることはなかったというものであった。また、日ごろから俸給を割いて写経を行ない、仏像を造顕したが、人に知らせることはなかった。老齢となってからは供養・薫修に励み、死後に遺族が追善仏事で煩うことのないようにしたという。
よく考えれば、首尾一貫した天晴れな人生と称すこともできよう。