(城郭・戦国史研究家:西股 総生)
上田城攻めでは徳川秀忠の本陣に
まとまった仕事が一段落したので、骨休めに信州の温泉地へ。ついでに、錦秋の小諸城に寄ってみた。信州を代表する城としては、まず国宝天守のそびえる松本城があり、前回(前編・後編)紹介した諏訪高島城や上田城、高遠城、少し城に詳しい人なら龍岡城や飯山城も指折るかもしれない。
その中で、人気があるのは何といっても松本城と、上田城だ。この2城にくらべれば、小諸城はやや地味。けれども、「城としての面白さ」という観点からいうなら、僕は断然、小諸城を推す。なぜかというと・・・(以下、太字は『1からわかる日本の城』の解説ページ)。
戦国のころ、この場所には大井氏というローカル豪族の城があったが、大井氏を逐った武田信玄によって作戦基地として拡張・強化される。武田氏が滅んだのちは、織田信長の家臣である滝川一益や、北条氏、徳川氏などが争奪を繰りひろげ、豊臣秀吉が北条氏を滅ぼすと、仙石秀久が5万石で入った。
1600年(慶長5)の関ヶ原合戦の際には、宇都宮から進軍してきた徳川秀忠が、上田城に籠もる真田昌幸・信繁父子を攻めるため、この城に本陣を据えている。徳川の天下になると小諸城は幕府の直轄となり、その後は譜代大名が入れ替わり立ち替わり入った・・・と、歴史を軽く繙いてみればわかるように、この城は戦国時代以来ずっと、戦略拠点として重視されてきたのだ。
さて、しなの鉄道(旧信越本線)の小諸駅を降りて、跨線橋を渡ると、そこはもう小諸城だ。というより、駅が城の三ノ丸をつぶして建っているのである。この城は俗に「穴城(あなじろ)」といって、城が城下町より低い位置にある。
さらに城下町の外側に北国街道が走っているので、街道 → 城下町 → 小諸城と攻め下ろす地形になっているわけだ。実際、城内への入り口になっている三ノ門へ跨線橋から向かうと、門が穴倉の中に建っているように見える。
なぜ、こんな占地(p144)の城が、戦略的に重視されたのだろうか? 城内を実際に歩きながら、答えを探してみよう。
三ノ門は櫓門だが、城郭建築には珍しい寄棟型式の屋根なので、あまり強そうに見えない。江戸時代後期に再建された門だから、戦闘力はさほど重視されていないのかもしれない。ただし、三ノ門が穴倉の中に建っているように見えるのは、二ノ丸と三ノ丸を隔てる空堀の中に登城路が通っているから。
いまは三ノ丸に駅が建ったり道路が通ってしまっているので、この構造がわかりにくいが、跨線橋ではなく線路と道路をくぐるトンネル式の通路をくぐってくると、堀底を通って三ノ門に入っていたイメージが涌くだろう。よく見ると、門の両側が横矢掛り(p156)になっている。建物としての門はともかく、虎口(同)としてはかなり厳重な造りなのだ。
三ノ門をくぐって入場券を買い、まっすぐ進むと枡形虎口(同)から二ノ丸に入り、石垣に挟まれた通路を歩かされる。むむっ、なかなかタイトな縄張り(p138)ではないか。城兵が正常に配置されていたら、ここを通り抜けるのはかなり厳しい。しかも、本丸との間は巨大な堀切(p150)で隔てられているのだ。(つづく)
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