琉球の歴史と帰属問題
(1)琉球王国の冊封体制
14世紀後半、元をモンゴル高原に追って中国の統一を成し遂げた明は、成立直後から周辺諸国に対して積極的に朝貢を呼びかけた。明の呼びかけに応じた国の一つに琉球があった。
14世紀後半、沖縄本島には中山(ちゅうざん)、南山(なんざん)、北山(ほくざん)の3国が分立していたが、1372年、明の洪武帝の招諭に応じて中山王の察度が朝貢し、その後相次いで山南、山北も明に朝貢した。
1402年には察度の跡を継いだ武寧が、明より派遣された冊封使によって冊封される。
1406年頃に中山王となった尚巴志が、1416年に北山を滅ぼし、1429年に南山を滅ぼし三山を統一した。統一後、首里に王府を置き、琉球王国が誕生した。
この琉球王国の冊封体制は、1879年の琉球処分(筆者:詳細は後述する)までの約500年間続くことになる。
明当局は新興国琉球に様々な優遇措置を講じ、その結果として明への朝貢を軸として日本、朝鮮、東南アジアとの中継貿易地として琉球は繁栄する。
しかし15世紀の前半期以降、国際情勢の変化と明の国力低下に伴って優遇措置は中断していき、また中継貿易にもライバルが出現し、中国でも密貿易が盛んになる中で、次第に琉球の中継貿易は振るわなくなって行った。
貿易の不振を受けて南西諸島での領土拡大、中央集権化で危機を乗り越えようとした琉球王国であったが、日本、なかでも南九州との関係の重要性が増していき、しかも16世紀後半には島津氏が急速にその力を増していき、琉球王国を圧迫していくようになる。
そして琉球国王・尚寧の治世下の1609年、薩摩藩の琉球侵攻が行われ、琉球王国は日本と中国の二重の支配構造の中に置かれるようになった。
(2)島津氏の征服。日清両属となる
日本の江戸時代となった1609年、薩摩の大名島津家久は琉球の資源とその交易による利益に目をつけて出兵し、首里城を占領して国王尚寧を捕らえ、服属を強制した。
琉球王国は、島津氏の監督の下に、将軍の代替わりごとに慶賀使を江戸に送ると共に、中国に清朝が成立すると毎年進貢船を派遣し、代わりに清の冊封使が来航した。
こうして琉球王国は、日本に服属し、清国を宗主国とする、両属の国となった。
(3)日本と清国の両属とされた琉球を巡る19世紀後半での日清の対立
琉球王国は、江戸時代には形の上は独立した王国であり、事実上は島津氏を通じて日本の支配を受けながら、清朝を宗主国としてその冊封を受け朝貢しているという、両属の形を取っていた。
江戸時代にはそれが問題になることはなかったが、明治維新後、近代的な主権国家を目指す日本は、明確な領土概念を適用し、日本の支配下に組み込もうとした。
それに対して清朝は宗主権を主張して、琉球を支配下に置こうとした。この帰属問題は両国間の深刻な対立点となった。
(4)琉球処分(琉球併合)
明治政府による廃藩置県は1871年に行われたが、琉球に対しては翌72年に琉球王国を廃して琉球藩を置き、尚氏を藩主とした。
1874年には、琉球の漁民が台湾の先住民に殺害された事件を機会に、日本は、琉球は日本に属するとして台湾出兵を強行した。
これは近代日本が行った最初の海外派兵であり、台湾現地人との戦闘が行われ、清朝は強く抗議したが、英国の調停によって両国間の開戦には至らず、同年10月31日、日清互換条款が締結された。
日清互換条款の内容は、清国が日本軍の行動を台湾への「懲罰」として承認し、50万両の「撫恤金」(賠償金)を支払い、日本が台湾の占領地から撤兵することで、事実上、琉球が日本の領土であることを国際的に承認させるものであった。
その後も、琉球に対する清朝の宗主権の主張は続き、琉球内部にも清朝への帰属を主張する動きもあった。
そこで明治政府は1879年(明治⒓年)、軍隊・警察を派遣して威圧した上で、琉球藩を廃止して沖縄県を設置した。
この過程は日本史上では「琉球処分」と言われている。
形式的ではあれ独立国家であった琉球を日本が併合したものであり、それによって清朝の宗主権の一つが失われたことを意味している。
当時清の実権を握っていた李鴻章は、日本の台湾出兵、江華島事件、琉球処分という一連の動きは、清国を中心とする中華世界の秩序に対する挑戦として強く警戒し、琉球処分に対して、清国の駐日公使はただちに日本に抗議している。
琉球帰属問題はなおも日本と清国の間で継続されることとなった。
1879年、折から世界一周旅行の途中で来日していた米国のユリシーズ・S・グラント元大統領が日本と清国の調停役を引き受けた。
グラントの仲介により、日清間で直接交渉が行われた。日本側は、日本の中国国内での通商権拡大(増約)と引き換えに、琉球諸島南部の宮古・八重山諸島を清国に割譲する「分島案」を提案した。
しかし両国の主張は歩み寄らず、この問題は1894年の日清戦争の一つの要因となった。
その後、日清戦争での日本の勝利と下関条約により、琉球全域が日本の領土として確定し、琉球帰属問題は決着した。
(5)筆者コメント
沖縄返還協定締結時(1971年)、米国と日本が沖縄返還協定に署名した際、当初、中国政府は沖縄の日本帰属そのものに対して異議を唱えることはなかった。
しかし、沖縄返還協定の「返還区域」に尖閣諸島が含まれていたことに対し、中国は「釣魚島(尖閣諸島)は歴史的に中国の領土であり、米日両国政府による授受は不法なものである」として、1971年12月30日に外交部声明を発表し、強く抗議した。
つまり、沖縄返還協定締結時に中国が異議を申し立てたのは、尖閣諸島の返還であり、琉球全域の返還でなかったことに留意すべきであろう。
ところが近年、中国の官製メディアや学術機関からは「そもそも沖縄は日本の領土ではない」といった懐疑論や、琉球独立を支持するような意見が出されるようになった。
これは、稲嶺元県知事が言うように、「今も、習近平氏の頭の中に琉球がある」からであると筆者は見ている。