習近平国家主席と沖縄との繋がり
(1)習近平氏の経歴
習近平国家主席は、1985年から2002年までの約17年間にわたり、中国の福建省で様々な役職を歴任した。
この期間の経験は、現在「福建閥」と呼ばれる彼の人脈の基盤となっており、現在の中国の政治においてもその影響力が見られる。
習近平氏の1985年から2002年までの経歴は次の通りである(出典:外務省)。
1985年6月 福建省厦門市党委員会常務委員、副市長
1988年5月 福建省寧徳地区党委員会書記
1990年4月 福建省福州市党委員会書記、同市人代常務委員会主任
1993年9月 福建省党委員会常務委員、福建省福州市党委員会書記、同市人代常務委員会主任
1995年10月 福建省党委員会副書記、福建省福州市党委員会書記、同市人代常務委員会主任
1997年9月 第15期党中央候補委員
1999年8月 福建省党委員会副書記、副省長、代理省長
2000年1月 福建省党委員会副書記、省長
2002年10月 浙江省党委員会副書記、副省長、代理省長
(注1)中国の地方行政において、福建省党委員会書記と省長は、それぞれ、福建省の党の最高責任者と行政の最高責任者という明確な役割分担がある。党委員会書記の方が序列は上であり、省全体の方向性を決定する最高権力者である。一般に、副書記が省長を兼務する。
(2)習近平氏の沖縄来訪
習近平氏は福建省長(当時)として2001年2月28日に沖縄県を訪問し、当時の沖縄県知事であった稲嶺惠一氏と会談している。
この訪問は、福建省と沖縄県の友好県省関係(大田県政時代の1997年に沖縄県と福建省が「友好県省」を締結)の一環として実現した。
習近平氏は稲嶺知事と会談した際、琉球と中国の歴史的なつながりに関する深い知識を示し、稲嶺氏を驚かせたことが知られている。
話は若干遡るが、1991年当時、那覇市では中国風庭園「福州園」(注2)の建設、福州市でも往年の琉球王国の出先機関だった琉球館(注3)の復元プロジェクトが進められていた。
習近平氏がこの双方に深く関与した結果、那覇市内の福州園は、いまや中国側からは「習近平ゆかりの地」として認知され、訪沖した中国要人がほぼ必ず「聖地巡礼」に訪れる特殊な場所と化した。
(注2)福州園は中国福建省福州市と那覇市の友好都市締結10周年と、那覇市市制70周年を記念して1992年に完成。園内は中国の雄大な自然と福州の名勝をイメージして造られていて、異国情緒にあふれている。福州園のある那覇市久米は、今から600年ほど前に福建省から渡来した人々が定住し、中国とのゆかりの深い場所である。
(注3)琉球館:柔遠駅(琉球館)は中国福建省の「省級文物保護単位」(省級文化遺産)で、明代成化8年(1472年)に建設が始まった。当時、明の朝廷に琉球国王からの貢ぎ物を献上する任務を担っていた琉球の貢使は、福州の沿海地域から上陸し、内陸地域へ移動する途中でまず柔遠駅に滞在し、それから「京城」(現在の北京を指す)へ赴いて中国の皇帝に謁見していた。明の朝廷が同駅を「柔遠」駅と名付けた理由は「優待遠人、以示朝廷懐柔之至」(遠方からの訪問者を優遇することで、朝廷の懐柔政策を明示する)という一文に由来している。当時、柔遠駅には多くの琉球人が滞在していたことから、一般的に琉球館と呼ばれている。また、福州琉球館の一角には、異郷で人生の終焉を迎えた琉球人たちの霊を祀る祭祀施設として、1691年に「崇報祠」(霊廟又は位牌堂)が創設されている。1937年1月に福州琉球館の調査に訪れた日本の著名な歴史学者・小葉田淳氏によれば、祀堂には約500位牌が安置されていたという。
(3)稲嶺惠一氏の習近平氏の思い出
稲嶺氏は、2001年に沖縄県を訪問した習近平氏と会談し、翌2002年に中国福建省を訪問し、当時福建省のトップであった習近平氏(中国共産党福建省委員会書記)と2度目の会談をしている。
稲嶺氏は、2回会談した習近平氏の印象を次のように述べている。(出典:読売新聞オンライン「[時代の証言者]苦悩の島 和を求めて 稲嶺恵一<26>習近平氏の琉球知識に驚き」2024年6月28日)
「2002年8月、今度は私が福建省を訪ね、習さんと面談しました。習さんは相変わらず物静かでした。ただ、この時は琉球の歴史について、結構やりとりしたんです」
「『福建省からは、過去に多くの人が琉球に行きました』などと話し、随分詳しいんだなあ、とびっくり。身内意識のような思いもあるのかな、と感じました」
「さらに、だいぶ後にわかったのですが、実は、習さんは1991年、那覇に重要な出張で来ていたのです。当時、福建省の省都・福州市の共産党書記でした。那覇市内に造る中国式庭園「福州園」について協議するためでした」
「習さんは、私に2回会っても、この訪問に触れませんでした。どうりで琉球の歴史に詳しいわけです。中国要人は、格言や自分の体験などを織り交ぜてにぎやかに話す人が多いですが、この人は「超」がつく秘密主義の人だったんだと、今はしみじみ感じます」
「昨年(2023年)、習さんが尖閣諸島と琉球との関係に言及した、という報道がありましたが、2002年に会った時のことをまざまざと思い出しました。やはり「琉球」は、今も習さんの頭の中にずっとあるのだ、と私は思います」
「よけいなことを言わず、今は中国の国家主席に上りつめました。何を考えているか、誰もわかりません・・・が、沖縄は今後も無関係ではない。そんな不安も最近は感じています」