「今年も不足するのでは」との不安がコメ市場を支配

 1993年に日本は記録的な冷害と日照不足(長雨)に見舞われ、平年作を100とする作況指数は全国平均で74まで落ち込んだ。東北の被害がとりわけ厳しく、コメどころの宮城が37、青森に至っては28という壊滅状態になった。

 日本のコメ需要は1300万トン超を記録した1960年代をピークに減少していたが、93年時点ではまだ1000万トンの規模があった。しかし、冷害の影響で生産量は800万トンに届かず、備蓄米を放出してもなお200万トンほどが不足した。当時の細川政権はタイや米国からコメの緊急輸入を決めた。

 この動きがウルグアイ・ラウンド交渉に波及した。政府は例外なき関税化を拒否したものの、部分的な市場開放を受け入れざるを得なくなった。こうして導入されたのがミニマムアクセスであり、今回のトランプ政権との交渉で、政府内ではミニマムアクセスの枠内で米国産米を優遇(拡大)する案が検討されている。

コメの「市場開放」に踏み切った細川護熙首相(左、当時)、羽田孜外相。1993年、ウルグアイ・ラウンドから帰国後、参院予算委に出席したときの様子(写真:共同通信社)

 昨年のコメ供給量は猛暑の影響を受けたものの、平成の米騒動のような減産ではない。それでも価格は急騰し、政府は備蓄米の放出に追い込まれた。減反政策をやめた2018年以降も減少を続けるコメ消費量に合わせ、主食米の生産縮小を補助金で誘導してきた農業政策は行き詰まりつつある。

 足元のコメ需要は700万トンを下回り、市場規模が小さくなった分だけ不測の供給減や需要拡大が相場変動を拡大してしまう。コメの価格や流通を規制してきた食糧管理法は1995年に廃止され、農家の販売や流通市場への新規参入も自由度が増した。

 今回の米騒動で政府は備蓄米を放出したが、価格はなお高止まりしている。「今年も不足するのでは」との不安が支配するコメ市場を落ち着かせるのは容易ではない。