御三卿でなければ、名君になっていた?

 文政10年(1827)2月20日、一橋治済は、77歳で息を引き取った。

 あまり芳しくない評判が伝わる治済であるが、腹黒いだけ人物ではなかったようである。

 例を挙げると、邸内の倹約に対して、的確で細部にわたる指示を繰り返し、稽古場を設けて武芸を奨励。

 領知行政にも細かい配慮をし、代官を諫めることも忘れなかったという(辻達也「一橋家の歴史」 茨城県立歴史館『一橋徳川家の名品』所収)。

 もし、独立した大名だったなら、名君となり得る素質は、充分に備えていたとみられている(歴史読本編集部『徳川将軍家・御三家・御三卿のすべて』)。

 ドラマの一橋治済も、御三卿の一橋家ではなく、大名の当主に生まれていたのなら、名君と呼ばれていたのかも知れない。