治済と田沼意次の共謀? 徳川家基の急死

徳川家基像

 安永8年(1779)、十代将軍・徳川家治の長男・奥智哉が演じる徳川家基が、鷹狩りの帰りに発病し、18歳の若さで急死している。

 家治には、2人の娘(千代姫と万寿姫)と、2人の息子(家基と貞治郎)がいたが、娘2人も貞治郎もすでに亡くなっていた。

 家基も死去した今、家治に残された子は、養女・種姫(田安家の初代当主・徳川宗武の娘)のみだった。

 江戸幕府の規程では、武士は50歳までに、実子、養子を問わず、家督の継承者を定めておくことが望ましかった。

 当時、43歳だった家治には、これから跡継ぎとなる男子が誕生する可能性も、まだ残されていた。

 しかし、家治は将軍家の安定を優先し、養子を迎える道を選んだ(以上、藤田覚『田沼意次 御不審を蒙ること、身に覚えなし』)。

 次期将軍となる養子の選定という大任を託されたのは、渡辺謙が演じる老中・田沼意次である。

 御三卿筆頭の田安家は、当主不在のため、対象から外れた。

 もし、聡明で知られた松平定信が田安家にいれば、有力な候補だったと思われる。

 だが、定信は白河藩主・松平定邦の養子に迎えられ、天明3年(1783)に家督を継いで、白河藩主となっていた。

 この松平定信が養子に出されたのは、一橋治済と田沼意次による策謀だったともいわれる(岡崎守恭『遊王 徳川家斉』)。

 いずれにせよ、田安家は対象外であり、家治の養子は一橋家か清水家から選ばれることになった。

 清水家の当主は、家治の弟にあたる清水重好だった。

 本来なら、清水重好が家治の養子にふさわしいはずである。

 だが、意次が選んだのは、一橋治済の長男で、9歳の豊千代だった。

 意次と一橋家は、意次の弟・田沼意誠(おきのぶ)を通じて、深い繋がりを築いていた。

 田沼意誠は、享保17年(1723)に召し出され、治済の父・宗尹の小姓となって以来、一橋家に長く仕え、宝暦9年(1759)には、家老の座に就いている。

 意誠は安永2年(1773)に死去したが、意誠の子・意致が跡を継ぎ、安永7年(1778)7月には、亡父・意誠と同じく家老にのぼった。

 意次が豊千代を選んだのは、一橋家との関係の深さが一因とも、自分が選定した豊千代が将軍となれば、豊千代の時代も、引き続き権勢を手にできると考えたとも推定されている(安藤優一郎『田沼意次 汚名を着せられた改革者』)。

 治済と意次に都合がよい結果のため、二人が共謀し、家基を毒殺したともいわれる。

 江戸中期の俳人・随筆家の神沢杜口(かんざわとこう)著の『翁草』には、大奥女中の間で意次による毒殺説が広まっていることが記されているが、真相は定かでない。