松平定信を老中に推挙
天明元年(1781)閏5月、一橋治済の長男・豊千代が家治の養子と公表され、江戸城西丸に入って、12月に家斉と称した。
天明6年(1786)8月25日、十代将軍・徳川家治が急死する。当時、田沼政治から民心は離れており、後ろ盾を失った田沼意次は2日後の27日、老中辞職に追い込まれた。
天明7年(1787)4月、家斉は15歳で十一代将軍に就任し、同年6月、白河藩主となっていた松平定信が、30歳で老中首座を拝命。松平定信政権が誕生したのである。
家斉の治世の安定を願う一橋治済が(横山伊徳『日本近世の歴史5 開国前夜の世界』)、尾張、紀伊、水戸の徳川御三家の当主とともに、従兄弟にあたる松平定信を田沼意次に代わる新しい幕政の主導者として、老中に推挙したという。
そのため、治済は御三家の当主とともに、人事や政策などの重要事項の実施について、定信から意見を求められるようになった。
だが、家斉が治済を大御所(前将軍)として西丸に迎えようとしたこと、および、治済の実兄である福井藩主・松平重豊の官位昇進を反対されたことなどにより、治済と定信の確執は深まっていく。
治済は、老中格の本多忠籌(ほんだただかず)に指示を与えて、定信を老中から解任したという(山本英貴「「大御所時代」の幕藩関係」 荒木裕行・小野将編『日本近世史を見通す3 体制危機の到来――近世後期―』所収)。
寛政11年(1799)正月には、家督を六男・斉敦(なりあつ)に譲って隠居するも、幕政の黒幕的存在として、死去するまで政治力、影響力を持ち続けたとされる。