ライシュは公共への奉仕を提案するが
教育を投資とみるのではなく、「責任ある市民」になる場とみなし、国民皆徴兵時代を想起させつつ慎重に2年間のボランティアや炊き出し参加といった公務への従事を通じて、おそらくベラーの古典的議論を踏まえた「心の習慣」を育む公益への奉仕機会を提案する。
いかにもアメリカプラグマティスト的だが、実際には教育を投資とみなすインセンティブは強く、人々、特に富裕層が認識変更する動機づけは弱く、同じ理由で奉仕活動従事も敬遠されるだろう。
「解決策」としては説得力に欠くものの、合衆国憲法(とその精神)への回帰、コモングッドを再考せよというライシュに限らないアメリカにおける主張はいささか規範的ではあるものの力強く映る。
国民と国家が立ち返る先があるからだ。
翻って、2010年代に明らかになった世界的な分断の機運から遅れて、今まさに同じ道を歩もうとしているように思える我々の社会においてはどうか。
ネットメディアの主流化と政治における活用、インフレの進行と実質賃金低下の慢性化とインフレ対策の遅れ。訪日外国人の増加と外国人労働者の政策的増増加、排外主義的言説のひたひたとした蔓延……。
いま、日本の各地で起きている諸問題は2010年代に欧米で本格化した問題と共通点があるようにも見えるし、まだとば口に立っているに過ぎないようにも思われる。
コモングッドを日本語で直訳するなら、「公共の福祉」ということになるのかもしれない。しかし法学者はいざしらず、「公共の福祉」という文言から何か具体的な姿や歴史を想起できる人がいったいどれだけいるだろうか。
かつて日本がまだまだ経済的に豊かで経済大国と目されていた時代にすら、「アメリカがくしゃみをすると日本が風邪をひく」と言われたものである。
そのアメリカは経済に限らず、留学生の受け入れ中止や留学プログラムそれ自体の中止など大混乱である。アメリカの今の振る舞いはくしゃみどころではないだろう。もはや激しい発作のような状態だ。
すっかり斜陽の大国と化した現在の日本はどのような影響を受けるのだろうか。そして、グローバルなトレンドに対してどのような備えができるのだろうか。それとも世界の教訓を活かせないままに世界が辿ったのと同じ道を歩むのだろうか。どうもそんな気がしてしまう。
宮古島便の道中、3時間の読書でトランプ2.0と、アメリカと世界が経験した混乱、そして本邦社会の参照点の不在とこれからにぼんやり思いを馳せた。