外野手としての道が開けたターニングポイント

 高校までの野球は独学に近かったのですが、亜大では先輩が細かく野球を教えてくれました。「こんな野球があるのか!」と、おもしろくてしかたがなかったですね。練習は厳しかったですが、トコトン野球ができる喜びがあったし、みるみるうまくなっていく自分がいました。

 外野手になって、野球のおもしろさに拍車がかかったんです。練習中は体から自然にエネルギーが湧き出るような感じでした。

 そんなある日、生田勉コーチ(当時)に「飯塚、このチームに足りないのは何だと思う?」と問われました。

 私は「元気、エネルギーが足りないと思います」と答えました。すると、「よし、明日のオープン戦からチームの雰囲気を変えろ」と、ベンチ入りメンバーに抜擢されたんです。 

 投手としてはダメだったけど、そこから外野手としての道が開けた。野球人生のターニングポイントの1つだったと思います。

 生田さんとの出会いは、高校3年春の関東大会です。実は、生田さんは他校の投手を視察に来ていましたが、ある新聞記者の方から「二松学舎沼南の左腕はなかなかおもしろいですよ」と聞いて、私を見てくれたんです。

 その後、生田さんは3日連続で二松学舎沼南のグラウンドまで来て、「君がマウンドからまわりに声を掛けながら投げている姿を見て、『こういう選手がほしい』と思ったんだ」と、熱心に勧誘してくださいました。

 投手や打者としての技術ではなく、野球をする姿、数字に表れない部分を評価してもらえたのがうれしかったですね。他の大学からの誘いもあったのですが、亜大に行こうと決めました。

 今思えば……ですが、生田さんはそのときから亜大に足りない部分を埋める役割を私に期待してくださったのかもしれません。

 当時の亜大では、練習の締めくくりとして全員で揃って素振りをしていました。「イチ、ニ、サン……」の号令に合わせて300回。そこで私は「イチ」の間に2回振っていたんです。ほかの人の2倍、600回振ることになります。

 生田さんはそれを見ていて、「成長も倍のスピードだな」と声を掛けてくれました。