カーター大統領の権威失墜、そして米国民は「強いアメリカ」を望んだ
1980年の大統領選挙では、ロナルド・レーガンが現職のジミー・カーターを破り、当選した。
レーガン政権が発足した直後に、アメリカ政府の招きで訪米し、各地を巡ったので、当時のことをよく覚えている。
1979年にはイランでイスラム革命が起こり、シーア派(十二イマーム派)最高指導者のホメイニ師が政権に就いた。
政権を追われたパフレヴィー2世は海外を転々としていたが、最後にアメリカへの入国を求め、アメリカ政府はこれを認めた。ホメイニ政権はその身柄の引き渡しを求めたが、拒否されたため、怒った学生らは、1979年11月テヘランのアメリカ大使館を占拠し、大使館員52人を人質にとって立て籠もった。
アメリカのカーター政権は、翌年の4月に、ペルシャ湾に展開する空母から救出作戦を試みたが、ヘリコプターの故障で失敗した。
この人質救出作戦失敗によってカーター大統領の権威は失墜し、それが大統領選挙での敗北につながったのである。
経済的には、イラン革命が第二次石油ショックを引き起こした。革命により、メジャーズ(国際石油資本)はイランから撤退し、新政権は石油を国有化し、石油の輸出を制限した。当時のイランは、サウジアラビアに次ぐ世界第二位の産油国であり、その影響は大きかった。石油価格が高騰し、また、OPECが原油価格を段階的に引き上げることを決めたため、第二次石油ショックとなったのである。これに、1980年9月に勃発したイラン・イラク戦争がさらに暗い影を落とし、石油価格が3年間で2.7倍に跳ね上がる危機的状況になった。