チェルノブイリ事故後に起きたアート界の変化
広島と長崎の被爆の悲劇は、すぐ世界に知られなかったという。松重美人、山端庸介等が撮影しているが(どんな思いでシャッターを切ったのか)、その多くが米軍と日本当局から規制や消去がなされた。
それでも、1970年代になると核が人類と生態系に脅威であることが語られ始め、反核運動が世界に広がる。86年のチェルノブイリの事故で生命すべて、地球全体に取り返しのつかない影響が明らかになる。
そんな中、アーティストたちはアトリエで表現するだけではなくなる。パフォーマンスや生活を媒体にした新しい方法で、反核や反植民地のメッセージを体あたりで発し始める。
男性的な核爆発、軍国主義に対する女性アーティストたちのパフォーマスも世界各国で行われた。
「当時の芸術家の集団活動は女性によるものが多く、ロス、イギリス、オーストラリア、オランダなどで明確に社会や政治に訴えるパフォーマンスがありました。長い時間枠を持ち、母性のある女性が、核のない平和な未来を作り続けようと立ち上がったのです」(ガリモス氏)。
被爆国で地震大国の日本も、自ら爆弾を抱えるがごとく原子力発電所を複数持つ。そして福島の悲劇。そのパラドックスなカラクリも展覧会とカタログでは明快だ。日本人として騙されていたとショックを受けるが、知っていた気もする。
展覧会で戦後の日本と核について私が知ったことの一部は以下だ。
戦後、日本の右派は核問題に対し曖昧さを維持。原子力発電所普及推進、軍縮を求める様々な国際的な署名の拒否、軍事政権の植民地犯罪を避けるための原爆被害の正当化。
具体的には、アメリカは有利な日本の指導者の立場を強化した(=戦犯を釈放し、権力の要職に任命)。例えば、敗戦で投獄されたが、アメリカより釈放された正力松太郎は読売新聞の経営者になり、日本原子力委員会委員長として原子力を推進。読売新聞でも安全な核をうたった。55年から亡くなる69年まで衆議院議員。
戦時中に満州で中国人と朝鮮人捕虜に化学実験や細菌実験を行った石井四郎率いる731部隊の犯罪者も、アメリカとの協力と引き換えに投獄を逃れる。47年に設立された被爆者の健康検査をする日本の国立衛生研究所(当時は国立予防衛生試験所)の歴代所長についた者もいた。
戦後の日本美術の多くが、この文脈の中で発展していく。