鉄道と小栗上野介

 さて、その展示会場の中に、「小栗上野介」と「製鉄(造船)所」について解説したパネルがあります。江戸幕府で有能な幕臣であった小栗忠順(おぐりただまさ/1827~1868)については、本連載の中でもたびたび取り上げていますが、なぜ、明治5年の鉄道開通の解説に、幕府で活躍した人物の名が登場するのか、経緯をご存じない方は不思議な気がするかもしれません。

万延元年遣米使節団の幹部。左から左から副使・村垣範正、正使・新見正興、目付・小栗忠順 =1860年撮影(Alexander Gardner, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で)
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 実は、日本に鉄道が初開通する12年前の1860年、小栗(当時32)は、「万延元年遣米使節」のナンバー3(目付)として総勢70名を超える使節団を率い、パナマやアメリカ東海岸で、鉄道乗車の体験をしていたのです。模型ではない本物の蒸気機関車に乗った日本人は、ジョン万次郎のような漂流者を除き、彼らが初めてでした。

1860年、日米修好通商条約の批准書をアメリカ大統領と交わすため、幕府が差し向けた使節団。米軍艦「ポーハタン号」等に乗船し、約9カ月をかけて地球を一周し、江戸に帰着した。

 当時30歳だった本連載の主人公「開成をつくった男 佐野鼎(さのかなえ)」も、万延元年遣米使節団の随行員として小栗らと共に初めての蒸気機関車を体験しています。そのときの興味深いエピソードについては、本連載の45回目で、佐野の残した詳細な訪米日記を紹介しながら執筆しました。

(参考)「鉄道の日」に紐解く、幕末に鉄道体験した侍の日記 (2020年10月14日)

 佐野鼎の日記には、初めて目にした本物の蒸気機関車を指す言葉として、「蒸気車」と「火輪車(かりんしゃ)」の2種類が登場します。幕末には、蒸気機関で動く船のことを「蒸気船」または「火輪船」と呼んでいたので、自然とこの表現になったものと思われます。

 明治維新の8年前、初めて蒸気機関車を体験し、優れた造船所なども見学した小栗は、日本に帰国後、海外の進んだ技術や文化を積極的に日本に取り入れようとします。そして、横須賀製鉄所をはじめ、日本の発展のため、さまざまな近代化事業に着手したのです。

(参考)横須賀基地に残る幕臣・小栗忠順の巨大な功績、なのに最期は悲劇的な死が(2022年12月8日)

 残念ながら小栗は、1868年、何の取り調べもないまま新政府軍によって斬首され、明治の世を見ることなく逝ってしまいましたが、明治5年の鉄道開通においても、幕末から小栗らが推し進めていた近代化事業が礎となっていたことは間違いのない事実です。