「渡辺通 あなん」は東京・西麻布のミュシュラン1つ星「分とく山」で特に知られる野﨑 洋光氏の愛弟子・阿南 優貴さんが地元・福岡にオープンした日本料理店だ。
2023年8月にオープンして以来、訪れた人々を魅了し続けているというが……

エントロピーが減少する技
日本料理店を紹介しようというのにのっけからワインの話で恐縮なのだけれど、とある偉大なワイン醸造家が「完璧にバランスがとれたワインは重力から解放される」と言っていた。
これは、この人のワインを飲むとすぐに実感できるものなのだけれど、言葉で説明するのはちょっとやっかいな、やや哲学めいた話だ。
言葉の定義から言うと、バランスというのは天秤型の重量計のこと。左の皿に分銅を乗せ、右に計りたいものを乗せて、天秤が水平になったらその重量、というアレ。それを概念化して、Aさんがひどい目にあっているならBさんもおなじだけひどい目にあわせることで天秤を水平にする、というのがジャスティス。日本語だと正義と訳す場合が多いけれど、それだとうまく訳せないことがあるのは、ジャスティスが時に「目には目を」を指すことがあるから。
話戻ってワインでバランスと言った時は、複数のブドウないし複数のワインの間に取られる均衡、ということになる。甘いブドウを使うなら、同じだけ酸っぱいブドウも使う、みたいなことをしていくとバランスがとれる、というのがまずは簡単な理解。しかし、当然のことながら、天秤の左の皿に甘いブドウ100gを乗せ、右の皿には酸っぱいブドウ100gを乗せれば、はい、ジャスティス、とはならない。
そもそもブドウは天然自然のもので、100%酸っぱいブドウとか、100%甘いブドウなんてものは存在しないし、甘いと酸っぱいが等価かどうかにも議論の余地はある。しかもそれを判断する人間は容易にブレる。そんなあいまいな条件下で、高級なものともなれば百何十種類の性格の違うブドウがブレンドされるワインの、すべての構成要素をジャスティス状態にする、なんていうのは神業だ。
それに、こういうジャスティス状態はワインを造る誰もが目指すべき理想でもない。もちろん、まるっきりバランスがとれていないというのは想像がつかないけれど、ドラマに起承転結があるように、破綻や流転は魅力だ。
ただ、時々、ジャスティスの道を極めんとする人物が現れる。冒頭の人物はそのひとり。
その結果、何が起こるかといえば、冒頭の人物はそれを「重力からの解放」と表現するのだけれど、私は、奇妙な静寂が訪れると感じる。ちょっとした破綻があれば途端にガチャンと壊れる静寂。
「閑さや岩にしみ入る蝉の声」みたいな話で、本当の静寂ではなく、耳を聾するほどの音によって逆説的に、ある瞬間にのみ生まれる静寂。膠着した盤面のような緊張状態、乱雑が生む簡潔、混沌が生む秩序、あるいはエントロピーの減少。
そういう奇跡めいた技芸の極みを感じることは時折あって、私は先ごろ訪れた福岡の日本料理店「渡辺通 あなん」でそれに出会った。
九州を料理したい
最寄りは天神南駅。ビジネス街区の一角、渡辺通という場所にこの料理店はある。ニューガイア渡辺通BLDGというビルの3階で、オープンしたのは2023年8月だ。
「あなん」という店名は、この店のオーナーシェフ阿南 優貴さんの名字から来ている。ランチもディナーもコースで19,800円(税込)。そのほか13,200円 (税込)のショートコースがある。
このエリアでは珍しい高級店なのだけれど、すぐさま地元の食通が注目し、そういう人物の一人が、私に熱っぽく阿南さんを紹介してくれたおかげで、私は実際にこの店を訪れ、その料理を味わうことができた。
阿南 優貴さん
聞けば阿南さんは久留米市出身で、高校1年生の頃に始めたアルバイトが定食屋だったことが、料理との付き合いのはじまりなのだそうだ。友人や家族が食べに来てくれて、お客さんが「おいしかったよ」と言って帰っていく
「僕が作ったんじゃないのに……とおもいながらも、こんな気持いい仕事があるんだなとおもいまして」
阿南さんはそう教えてくれた。
22歳になると、雑誌を見て知ったという東京・西麻布(住所的には南麻布だ)の「分とく山」へ。なんとそこから同店で、18年間技を磨き、最後の5年間は料理長もつとめた。そして40歳になって
「この場所が見つかったというのも大きかったんですよ」
料理人としてあらためて九州に向き合った阿南さんは、九州の豊かな食材を自分が表現したい、もっと九州のうまいものを発見したい、そしてそれを他人にも味わってもらいたい、阿南さんの言葉をまとめて解釈してみると、どうやらそんな思いが止めようのないものになったようだ。
造り写真は皮を軽く焼いたサワラとイシガキダイの刺し身を柚子胡椒、わさび、塩で。唐津漁港の名うての仲卸から仕入れており、豊洲への依存度は1割程度とのこと
当然「分とく山」を継ぐという道もあっただろう。しかし「分とく山」の初代料理長であり阿南さんの師である野﨑 洋光氏は、阿南さんの挑戦を応援してくれたのだそうだ。いや、今も、阿南さんを応援し続けてくれているという。「分とく山」は「とく山」の分店という成り立ちを考えると「渡辺通 あなん」は「分分とく山」とも言えるのかもしれない。
行くなら早いほうがいい
「この店はようやく1年ちょっと。私はぺーぺーですから」
一貫して謙虚な阿南さんの態度についうっかりしていたと気づいたのは二品目に出てきた小鉢料理ひとつ「よもぎの山椒煮」を食べたときだ。
写真右の皿が「よもぎの山椒煮」。左上は秋月の里芋をちりめんじゃこを使って揚げたものと、九十九島の牡蠣を真挽粉で揚げた揚げ物。左下は馬鈴薯をチーズとともに餡状にしたもの
冒頭に長々と記したような、複雑な味わいの間に取られた均整、研ぎ澄まされた簡素を感じて、これはとんでもない名人のところに来てしまったと知った。
それで職業柄、色々と質問をぶつけてみるだけれど
「いえいえ、自分はまだ修行中の身ですから」
「これは師匠も言っていたことですが、料理人は1ミリもすごくないです。美味しいのなら、それは素材のおかげです」
と阿南さんは一貫して謙虚に、穏やかな笑顔で応じる。そしてそれが心地いい。この人物がこれまで積み上げてきたもの、師から受け継いだものへの誇りが、謙虚の中からにじみ出ているのだ。私のようなぺーぺーの記者が、多少、揺さぶった程度で、それは微動だにしない。
それに、この店で阿南さんはサービススタッフでもある。その質だって当然、店の評価を左右する。一流の料理店のサービススタッフが、仕事中に記者にぺらぺら自分語りをするはずもない。
コースの料理はどれも甲乙つけがたいけれど、圧巻なのはシグネチャーともいうべき「アワビの小鍋」だった。
アワビの小鍋アワビの身、肝を使った汁に「佐賀海苔 香味干し」をのせる。ちょうどいいタイミングで少量の炊きたての白米が出る
阿南さんに言わせれば「アワビがいいから」とか「師匠のレシピがいいから」とかいったことになるのだけれど、香り、味、食感、温度……複雑な要素の間に一瞬だけ見出されるのであろう、すべてがバランスする一点に細い芯を通した、といった感じの料理で、ある種の「無」を感じる。二十四節気、つまり月に2回はメニューが変わる「渡辺通 あなん」において、これは定番としてコースの中盤に位置づけられているそうだから、あなたも行けば、この妙技を味わえるはずだ。どれだけ期待してもいいとおもう。
アワビの小鍋の前に出された大分のなめことエビの土瓶蒸し。本来、強烈な旨味を感じてしかるべき料理だとおもうけれど、抑制の効いた繊細でエレガントな味わいを実現している
おそらく今後、この店はさらに名が売れて、よい食材、酒、器がさらに集まり、より洗練されるはず。星もいくつかつくだろう。そうなったら、直前に連絡してふらっとお邪魔する、みたいなことはもう出来なくなるはず。
日本食らしいシンプルなデザートの前にコースを締めるのが土鍋ご飯。このときはカニをふんだんに使ったものを目の前で用意してくれた
だから個人的には、あんまり他人に教えたくない。しかし、阿南さんは、磨き上げた技で九州の食の素晴らしさを、そこで美味しいものを作る生産者を、世界中に知らしめたいようだ。阿南さんのことだから、自分の店が世界中から人がやってくる予約困難店になっても、お高くとまって感じの悪い料理人にはならないだろうけれど、なるべく会いやすいうちに会っておくことをオススメしたい。
福岡県福岡市中央区渡辺通2-9-9 ニューガイア渡辺通BLDG. 3F
TEL. 090-6180-0823
営業時間:18:00〜(月〜日)
水、土のみ12:00~ランチ営業有
不定休
