「蒸気車機関のカラクリは蒸気船と同じである」

 万延元年遣米使節の一行には、小栗のような幕臣のほか、身分は低くても優秀な若者たちが多数含まれていました。そこで今回は「鉄道の日」にちなんで、小栗上野介の従者通弁役として随行し、佐野の親友でもあった、肥後(現在の熊本)藩士の木村鉄太(当時31)の『航米記』から、鉄道体験のくだりを紹介したいと思います。

 木村は「蒸気車」に「ステエムカル(スチームカー)」とカタカナでルビをふり、『蒸気車機関のカラクリは蒸気船と同じである』と説明したうえで、次の一文を綴っていました。さすが小栗の従者だけあって、車両の作りからレールの敷設方法まで詳細に観察し、記録されていることがわかります。

 以下、『万延元年遣米使節 航米記』(高野和人著/熊日出版)より抜粋します。

『今日はすべて八車を接続させて一連としている。第一番目の車は、上に蒸気機関を載せている。機関手が石炭を燃やし、蒸気の力で車軸を運転させている。第二の車は石炭を積んでいる。第三の車は糧水および荷物を運ぶ。第四から第八の車までが人を乗せている。車中の両窓の椅子を連ねると、合わせて二十四席あり、一つの椅子ごとに二人を座らせて、四十八人乗ることができる。中央が歩廊(廊下)になっている。

木村鉄太が描いた蒸気機関車(『万延元年遣米使節 航米記』より)
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 車を繋ぐのに蝶和(蝶番=ちょうつがい)を用い、皆八車の中を自由に往来している。車道(線路)は平地に材木を横たえ、両端に長い鉄の梁を架けて、車はその上を走っていく。鉄梁の溝と車輪の溝とよく合って、食い違わないようにしてある。

 数丁行くにつれ次第に速度が出て、ついに矢の飛ぶように速く、窓に近い草木や砂礫は見つめることもできない。車輪の軋む音が響いて雷のよう、座席で向かい合っていても、話もできない』

使節団が初めて乗車したパナマ鉄道
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 木村鉄太は異国での異文化体験を記した日記と共に、ハワイ、サンフランシスコ、パナマ、ワシントン、ニューヨークなどで120枚を超える詳細なスケッチを遺し、今に伝えています。帰国後、間もなく病に倒れ、若くして亡くなったのは残念でなりません。

熊本県玉名市にある木村鉄太の墓の碑(筆者撮影)
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