戦後、GHQによる民主化教育の目玉の1つとして始まる
PTAは「Parent-Teacher Association」の略称です。教職員と保護者の組織であり、児童・生徒は会員ではありません。戦後の一時期は、地域によって「父母と先生の会」や「親と教師の会」などと呼ばれていましたが、やがてPTAという呼び名で統一されていきました。
公益社団法人・日本PTA全国協議会などによると、PTAの源流は第2次世界大戦の敗北直後のこと。1945年9月に文部省(現・文部科学省)が出した「新日本建設ノ教育方針」のなかで、教育現場から軍国的思想や軍事教育を一掃し、科学的思考や平和思考を育む必要性が示されました。
翌1946年にはGHQ(連合国軍総司令部)の要請で来日した米国の教育専門家らが報告書を作成。国家による教育現場への介入を防ぐ目的も持つ組織として、PTAの設立と普及が掲げられたのです。
当時、文部省が作成したPTAの結成手引書には「子どもたちが正しく健やかに育っていくには、家庭と学校と社会が教育の責任を分けあい、力を合わせていくことが大切」という趣旨が記載されています。
文部省の指導もあって、PTAは瞬く間に全国に広がりました。1950年1月に実施された文部省の調査によると、学校単位の組織率は小学校で93%、中学校で89%、高校で81%。敗戦から5年にも満たない段階で、ほとんどの学校でPTAが組織されたのです。
また、小中高を合わせた会員数はおよそ1500万人にも達していました。当時の日本の総人口は8300人余りですから、保護者を軸とした組織化の勢いが見て取れます。
PTAは学校教育に関係するさまざまな活動を手掛けてきました。
運動会など大きな行事の支援、地域のお祭りなどとの連携、学校の広報活動、保護者と教職員の意思疎通をはかる会合、図書室への書籍の寄贈、バザーや廃品回収などによる資金づくり、交通安全・防犯活動……。中高年の世代では、学用品や体育用具を整えるため、「ベルマーク」集めに取り組んだ経験を持つ人も多いかもしれません。
その一方、PTAの役員を務めると、地元ではその名を広く知られるようになることから、地方議員を目指したり、地域の“顔役”として動いたりする人にとっては、「PTA会長」などの肩書きは大きな威力を発揮したとされています。