渡る世間はフェイクばかり——情報過多の時代、もっともらしい文章や画像、映像を簡単につくる生成AIまで登場し、何が正しくて、何がフェイクなのか、ますますわかりにくくなっています。世にまかり通り数々のフェイク、本当のところはどうなのか。政治学者の岡田憲治氏(専修大学法学部教授)が切り込んでいく。
第1回目はPTAについて。先日、岡山県PTA連合会が解散するとのニュースが話題になった。『政治学者、PTA会長になる』(毎日新聞出版)の著書もある岡田氏は、PTAについては罪深いフェイクがまかり通っているという。
(*)本稿は『半径5メートルのフェイク論「これ、全部フェイクです」』(岡田憲治著、東洋経済新報社)の一部を抜粋・再編集したものです。
「PTA」とは何の略か?
半径数メートルの生活圏には、さまざまなフェイクがあふれていますが、その中には悪意もない、そしてそれでいて、大変な数の善意の人々を苦しめているフェイクがあります。
その典型が、PTAをめぐるフェイクです。本当に罪深いフェイクであるので、最初に言ってしまいましょう。
それは、「PTAは学校や教育委員会の下部組織」というものです。
PTAは公的機関ではなく、「任意団体」です。つまり「卓球愛好会」と同じです。
もともとPTAとは、P(Parents)T(Teachers)A(Association)であって、「保護者と先生の会」であり、アメリカで生まれた地域団体を、戦後GHQが日本の民主化のトレーニングのためにかつての文部省(科学技術庁と統合され、現在は文部科学省)との協力で、戦前の父兄会などの看板をつけ替えて再生させたものです。
「父や兄」といった男性の陰で「お勝手仕事」を通じて「内助の功」を果たしていた女性たちに、民主社会を支える自覚と団体運営の基本を啓蒙・教育する必要があったのです。
ですから、それを推進した文部省も、地方政府として、それを現場で実行させるために、自治体や教育委員会が推進的役割を果たしたことは間違いありません。
しかし、そもそものこの組織のお手本は、巨大な連邦政府ではなく、各州や街(タウン)の生活圏において住民自ら運営する自律社会型のアメリカにありますから、行政組織の下部にあるはずがないのです。それでは、自治やデモクラシーを育むことができません。
そうした経緯で今日までずっと続いているPTAは、世紀の日本では、現代の社会条件に適応した形での運営、すなわち施設管理と教務労働で疲れた学校教員や、高齢化で機能が衰弱している都市部の地域社会を応援するための「任意団体(association)」なのです。
ところが「学校や教育委員会の下部組織」という誤解が思いの外広く浸透しているため、その実態は、「やりたくないけれど学校に関わることなんだから苦しくても逃げられない」という学校保護者たちの怨嗟と苦しみの発生源となってしまっているわけです。