SNSなどでリベラルと保守派との意見の食い違いが先鋭化することも多い(写真:mypokcik/Shutterstock.com)

 渡る世間はフェイクばかり——情報過多の時代、もっともらしい文章や画像、映像を簡単につくる生成AIまで登場し、何が正しくて、何がフェイクなのか、ますますわかりにくくなっています。世にまかり通り数々のフェイク、本当のところはどうなのか。政治学者の岡田憲治氏(専修大学法学部教授)が切り込んでいく。

 第5回目は「リベラル」について。SNSなどで自称保守派と罵り合う光景がよく見られるが、その姿はリベラルのキーワードである「寛容(tolerance)」とはほど遠い。両者に必要なのは罵倒ではなく会話である。

(*)本稿は『半径5メートルのフェイク論「これ、全部フェイクです」』(岡田憲治著、東洋経済新報社)の一部を抜粋・再編集したものです。

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SNSでの言葉の応酬、「何のための言論か?」

 SNS時代を生きれば、根本的に価値観の異なる人はブロックして、存在しないことにできます。でも、考えの異なる人にわざわざエネルギーをかけて、軽蔑しバカにするような人たちもいます。愛情の対概念は「憎悪」ではなくて「無関心」ですから、憎悪を浴びせる人は愛情深い人たちなのでしょう。

 そんな皮肉を言いたくなるのは、いわゆる「リベラル」と称される人たちと、彼らを攻撃する人たちの言葉の応酬を垣間見るとき、「何のための言論か?」という絶望的な疑問が浮上するからです。

 自称保守派の方々は、リベラル派を「お花畑リベ」とか「リベサヨ(リベラル派左翼)」などと蔑称し、リベラル側は、「ネトウヨ」、「ウヨ豚」などと、これまた品性を疑われかねない言葉を使います。私は目を瞑りXを閉じます。

 今日、リベラル的な言説を展開する人たちへの攻撃は、もうもともと「リベラル(liberal)」という言葉が含み守っていた複数の意味を完全に無視した、ただの罵倒語です。

 貧困に苦しむ人たちへの生活保護費を「在日系の連中が不正受給しているため、日本の財政は危機に瀕している」などと完全フェイクで塗り固め、「男を全員攻撃するのが○○フェミ」であるとか、もうお話になりません。

 そんな私は「リベラル派」だと思われています。でも私はリベラル的価値のいくつかにシンパシーをもっているけれども、決定的に異なる価値観もいくつかもっています。自分では「社会的保守主義者」だと思っているのですが伝わりません。

 今のリベラル陣営に対する苦言はすでに公表していますから*1、昨今感じる「心の異音」を示して、みなさんが保守同様、リベラルという言葉を「フェイク語」にさせ切ってしまわないように、説明したいと思います。

*1:拙著『なぜリベラルは敗け続けるのか』集英社インターナショナル、2019年