「過去の価値観が身体化している人たち」とどうやって関係をつくるか

 食卓で毎日「だから女はダメなんだ」と父親が威張り、「男なら泣くな!」と殴られ、妹は「お前は優しいお嫁さんになって男の人を支えなさい」と枠づけされ、そうやって教育されて20歳になったのが、まだ1982年だったのですから、今ここから見える風景は別世界で、まさに「一身にして二生を経る」(福澤諭吉)気分です。

 でも、頭では理解しても身体化されたものはなかなか克服できないのです。かなり努力はしていますが、数十年の身体慣習はもしかしたら死ぬまで直らない部分があるかもしれません。

 そして、うつむきながらも思うのです。「多様な価値、多様性と言うなら、我々のような存在に対しても、もう少し長い目で見守ってほしい」と。先行世代の狼藉の借金も含めて少しずつお返ししますからと。

 新しい社会的諸価値に寛容で、個の尊厳を重んじて、弱者に対しては配慮と援助が必要であるべきだと考えるみなさんに対して、昭和のおじさんは「その通りです。でも、身体がついていかないときがあるのです」と言いたいはずです。

「リベラルとは寛容のことだ」というのが柱なら、「寛容たれ!」と御旗を掲げて「無意識の遺制をなんとかしなさいな」と諌めるやり方は、あまりリベラルな態度とは受け止められず、心が拗ねた人たちによって、「リベラルが寛容だというのはフェイクである」と、あげ足を取られかねません。

 ここには、「過去の価値観が身体化している人たち」と、どうやって関係をつくって社会を維持するべきかという、真の意味での「政治」の問題があります。

 宮藤官九郎もドラマ(『不適切にもほどがある!』、2024年)で必死に訴えたように、「話そうよ」というのが偽らざる気持ちです*3

*3:岡田憲治「『不適切にもほどがある』人たちとの対話術 必要なのは『政治』」「朝日新聞デジタル」2024年4月19日。https://www.asahi.com/articles/ASS4F4DP8S4FUPQJ008M.html

半径5メートルのフェイク論「これ、全部フェイクです」』(岡田憲治著、東洋経済新報社)