学校は「運命的に入る共同体」という刷り込み

 それを解く鍵となる言葉が「学校」です。私たちの社会を生きる善良で真面目な人々においては、この「学校」に関わるという連想が生まれたとき、一瞬にして「任意(出入りもやり方も自由な)団体(幸福のための仲間づくり)」という論理が揺らいでしまい、「自由に選び運営する幸福のための仲間」がしっかりと身体化されていないことが露呈されてしまうのです。「身体化されていない」ということは、生活思想となっていないということです。

 そもそも、この狭い島国にルーツをもつ人々はおしなべて「人間は、ある年齢になったら既存の集団に自然に吸収され、その一員となる」という心の習慣を身につけています。

 もちろん、どこの地域に生まれるかは自由に選択できませんが、4歳になると「幼稚園や保育園」、7歳では「学校入学」、そしてかつては20歳で徴兵検査を受けて軍隊に「吸収される」ことになっていました。

 戦後も、就職すれば「企業・組合・職場は一家」と、「選択の結果というよりも運命としての共同体」の意識が残存していて、「人が組織に属するということは、個人が合理的に選択することなのだ」という近代的な論理が社会に完全に浸透していません。

 公立小学校という地域の基礎単位は、一部の保護者を除いて「運命的に入る共同体」と受け取られていますから、21世紀の学校保護者たちも、「学校なんだから」と、既存PTA組織に丸抱え的に吸収されやすいのです。

 今日、多様な生活の選択が開かれているのに、「PTAに入っておかないとマズいのでは?」という不安が根強くあるのは、私たちの社会生活のこの習慣的精神文法だと思います。

 私は、PTAが時代にそぐわない、歴史的役割を終えたものだと言いたいのではありません。何よりも地域や生活の実情に合わせて、「自由にそのステージ構築」をすればよいのに、謎のスイッチ「学校に関わるから」によって、もっている創造性、他者と幸福を紡ぐ技法、利他的に地域を生きる幸福を評価する力を活かせていないことをもったいないと言いたいのです。

 これは大切なことです。でも、それが活かせないのは、この小さくて重大なフェイクのせいかもしれません。

半径5メートルのフェイク論「これ、全部フェイクです」』(岡田憲治著、東洋経済新報社)