この時代から、子供たちは夜になると、父親とともにテレビの前に座り「巨人戦」のナイターをワクワクして見入るようになる。

 長嶋茂雄の1年遅れで、早稲田実から春の甲子園の優勝投手だった王貞治が入団する。プロでは一塁手となった王は、当初は「王、王、三振王」と揶揄される荒っぽい打者だったが1962年に荒川博打撃コーチとともに編み出した「一本足打法」でブレーク、長嶋茂雄とともに「ON砲」を形成した。

 後年のファンから見れば、ON砲、長嶋茂雄と王貞治は「2人のヒーロー」というイメージだが、1960年代初頭の野球ファンにとっては長嶋茂雄こそが「絶対的なスター」であり、5学年下の王貞治は「長嶋の後を追いかけてきた若手」にすぎなかった。

東京ドームに掲げられたONの写真(筆者撮影)
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ミスタージャイアンツ

 この時期、雨後の筍のように出てきた「少年雑誌」「漫画雑誌」でも、長嶋茂雄はヒーローだった。各誌は競って長嶋茂雄を表紙に掲げた。また長嶋をモデルにした漫画も数多くつくられた。中には長嶋茂雄がバットで宇宙人を撃退するという荒唐無稽なものまであった。

 1966年「週刊少年マガジン」で連載が始まった「巨人の星」は、そうした少年野球漫画とは一線を画する内容で、巨人軍元選手の子として生まれた星飛雄馬が、高校を経てプロ野球に入り、ライバルたちと死闘を繰り広げる迫真のストーリーだった。川上哲治、金田正一、長嶋茂雄、王貞治など実在の人物が登場し、星を叱咤激励した。

 1968年「巨人の星」が日本テレビ系列でアニメ化されると日本中の少年が夢中になった。星飛雄馬は長嶋茂雄など実在の野球選手とともに、野球少年たちのヒーローになった。

 1965年、川上哲治監督率いる読売ジャイアンツは空前の「V9(9連覇)」を果たす。これによって「巨人一強」は、確固たるものになる。

 長嶋茂雄は、成績では王貞治にかなわなくなるが、「ミスタージャイアンツ」さらには「ミスター」と呼ばれるようになる。絶対的な存在になっていた。

東京ドームに飾られている長嶋茂雄のレリーフ(筆者撮影)
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 1974年、長嶋茂雄は17年の現役生活にピリオドを打ったが、1958年、長嶋茂雄が巨人に入団した時と、引退時では「プロ野球の景色」は一変していた。極端に言えば長嶋茂雄という一個の存在が、日本の野球シーン、さらには庶民文化を一変させたといってよい。

 大谷翔平が50-50を達成して日本中が沸いているが、日本野球をここまでメジャーな存在に押し上げた長嶋茂雄に、今一度思いを致すべきかもしれない。

東京ドームでは今もセコムの長嶋の広告が試合を見下ろしている(筆者撮影)
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