しかし長嶋茂雄は、4年秋のリーグ戦を終えてから翻意し、巨人に入団する。この時期、新聞各社は「巨人か、南海か」を探ろうと長嶋を血眼になって探した。長嶋は大学野球部の先輩でもある新聞記者によってかくまわれ、巨人と契約した。

 新記録の8号ホームランを打ってからわずか3日後の11月6日の朝刊で「杉浦、南海入り表明、長嶋は巨人を希望」という五段抜きの大見出しが踊った。

 長嶋は南海の鶴岡監督に詫びを入れた。こうして長嶋茂雄の巨人入りが決まった。

1年目で本塁打王と打点王

 今の感覚では理解できないが、この時点で長嶋茂雄は、すでに日本で最も人気のあるスポーツ選手の一人だった。甲子園で活躍して西武に入った松坂大輔などアマチュア時代から注目を集めた選手は以後も出ているが、長嶋はそのレベルではなく、すでにスーパースターだったといってよい。入団したばかりで横綱若乃花、大女優の山本富士子と座談会をしている。

 西鉄ライオンズの名監督だった三原脩は、当時、後楽園球場の株を所有していたが、長嶋がデビューしてから株価が急上昇したという。後楽園で長嶋を一目見たいと思うファンが、株主優待の入場券に期待して株を買ったからだといわれている。

 満を持してのプロデビューだったが、新人の1958年の成績は空前絶後と言ってよかった。

 本塁打王と打点王の二冠に加え、打率は.305で2位。もう少しで「三冠王」だった。プロ野球で、草創年を除いて新人が打撃タイトルを獲得したのはこの時の長嶋と、翌年の中日、森徹が本塁打王を獲得したケースの2例しかない。

プロ野球デビュー1年目の長嶋茂雄の打撃フォーム、1958年6月撮影(写真:共同通信社)
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 この年、長嶋は37盗塁を記録したが、本塁打は29本だった。もしあと1本本塁打を打っていたら「新人でトリプルスリー」だった。実は長嶋はこの年9月19日の広島戦でさく越えの1発を打っていたが、一塁ベースを踏み忘れ、広島野手のアピールで本塁打が取り消しになっていた。この一発があれば、この大記録も達成していた。

 長嶋人気は沸騰した。おそらく、今の大谷翔平に匹敵するレベルだっただろう。