立教時代に大ブレーク

 とはいえ高校時代は全く無名だった長嶋だが、セレクションを経て立教大学に入学するとたちまち頭角を現す。1年の春から試合に出ていたが、2年生の秋に打率.343で3位、初本塁打も打ち、3年の春は2本塁打、8打点、打率.459で三冠王に。以後も毎季ホームランを打ち、4年の春には優勝。そして4年秋のリーグ戦最終戦の11月3日、東京六大学記録となる通算8本塁打を打つ。

昭和28年春以来8シーズンぶりに春のリーグ戦を制し、オープンカーで優勝パレードする立大ナイン。先頭車左が長嶋茂雄三塁手、右は本屋敷錦吾主将=1957(昭和32)年6月10日、東京・池袋駅前(写真:共同通信社)
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 当時の東京六大学は、単に大学野球の頂点というだけでなく、社会人野球の都市対抗、プロ野球と肩を並べる「日本野球のトップリーグ」という評価があった。

 その六大学で最大のスターになった長嶋茂雄が、どの球団に入団するかは、日本中の野球ファンの最大の関心事となった。

 長嶋茂雄は大学時代に、大阪タイガースの名三塁手、藤村富美男のプレーを見て三塁手に転向した。また大学時代には、立教大学の先輩で、南海ホークス外野手の大沢昌芳(のち大沢啓二、大沢親分)の紹介で、憧れの存在だった南海の鶴岡一人監督とも会っている。

「立教のエースだった杉浦忠とともに、長嶋茂雄は南海に行くだろう」

 というのが大方の見方ではあった。もし本当にそうなっていれば、プロ野球の勢力図は今とは大きく変わっていたはずだ。