立教時代に大ブレーク
とはいえ高校時代は全く無名だった長嶋だが、セレクションを経て立教大学に入学するとたちまち頭角を現す。1年の春から試合に出ていたが、2年生の秋に打率.343で3位、初本塁打も打ち、3年の春は2本塁打、8打点、打率.459で三冠王に。以後も毎季ホームランを打ち、4年の春には優勝。そして4年秋のリーグ戦最終戦の11月3日、東京六大学記録となる通算8本塁打を打つ。
当時の東京六大学は、単に大学野球の頂点というだけでなく、社会人野球の都市対抗、プロ野球と肩を並べる「日本野球のトップリーグ」という評価があった。
その六大学で最大のスターになった長嶋茂雄が、どの球団に入団するかは、日本中の野球ファンの最大の関心事となった。
長嶋茂雄は大学時代に、大阪タイガースの名三塁手、藤村富美男のプレーを見て三塁手に転向した。また大学時代には、立教大学の先輩で、南海ホークス外野手の大沢昌芳(のち大沢啓二、大沢親分)の紹介で、憧れの存在だった南海の鶴岡一人監督とも会っている。
「立教のエースだった杉浦忠とともに、長嶋茂雄は南海に行くだろう」
というのが大方の見方ではあった。もし本当にそうなっていれば、プロ野球の勢力図は今とは大きく変わっていたはずだ。